「青楼後朝雨」(せいろう きぬぎぬのあめ)

版元;蔦屋重三郎
画師;栄松斎長喜
刊行年;寛政4年から10年 当店の蔵書は昭和年代の複製
出典;画像はボストン博物館

『青楼後朝雨』 は、寛政期を代表する浮世絵師・栄松斎長喜による美人画である。描かれた場所は大店の松葉屋の花魁、禿達の朝の様子を描いたようです。後朝の花魁の気持ちを代弁したようなウエット的(雨)な発句が寄せてあり、題名の後朝の雨につながっているようです。「後朝(きぬぎぬ)」とは男女が契りを交わした翌朝を意味し、平安文学以来の恋愛表現として広く知られていた。本図は吉原遊郭を舞台に、客との別れの後に訪れるけだるく物寂しい朝の情景を描いている。

この作品は単なる「美人画」ではなく、吉原文化の物語性を一枚の画面に凝縮した作品として評価できます。

「後朝(きぬぎぬ)」とは本来、

  • 遊客が帰る朝
  • 男女が別れる朝
  • 交歓の余韻が残る時間

を意味します。江戸の吉原では、客は明け六つ(早朝)まで滞在し、その後に大門から帰りました。

長喜はこの瞬間を、

  • 朝の静寂
  • 女性の仕草

によって詩的に表現しています。雨は単なる気象表現ではなく、「恋の名残」「別離の寂しさ」を象徴していると考えられます。遊女の心に残る恋の余韻や別離の哀感を象徴する。こうした情緒性は、華やかな吉原文化の裏側にある人間の感情を描き出したものとして高く評価される。

余談ですが、後朝をテーマにした和歌が平安時代の源氏物語や万葉集などに多数掲載されています。「後朝の文(ふみ)」と言って、帰宅後に男性から女性に手紙や和歌を送る風習がありました。江戸時代でも廓の女郎がマブと手紙のやりとりをしていたようです。

源氏物語から後朝の文の一例。

見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちに やがてまぎるる我が身ともがな

これは、光源氏が義母と禁断の恋愛での光が後朝に詠んだものです。

【栄松斎長喜】

長喜は鳥山石燕門下に学び、喜多川歌麿と同門の絵師であった。出自も年齢も不明確で謎多き絵師でした。歌麿が女性の表情や心理を大首絵によって追求したのに対し、長喜は全身像による優雅な姿態表現を得意とした。細長い首、しなやかな身体、流れるような衣文線は長喜独自の様式であり、本図にもその特色が顕著にみられる。

長喜は版元・蔦屋重三郎に見出され、歌麿・写楽と並ぶ重要な絵師として売り出された。ポスト歌麿の最有力候補だった。本図も蔦屋が推進した寛政期美人画の流れのなかで生み出された代表作の一つであり、吉原文化と浮世絵出版文化の成熟を示す貴重な作品です。

「梅樹下の馬」(ばいじゅかのうま)

画工 北尾重政
版元 不明
刊行年 不明

私が個人的にも好む清々しい錦絵です。満開の梅が咲き乱れる初春の水辺で、毛色の異なる3頭の馬がのどかに戯れる様子を描いた牧歌的な作品です。梅の香り、爽やか水風を感じさせる配色が素晴らしい。

見どころ:馬の毛並みやふくらみなどが、「空摺(からずり)」という凹凸をつける技法によって立体的に表現されています。空摺とは、絵具を使用せずに摺師の手作業で凹模様(エンボス加工)を和紙に付ける手法。動物の毛、鳥の羽、草花、雪、着物の柄など様々な要素の表現に用いられてきました。鈴木春信や喜多川歌麿も盛んに用いたと言われています。北尾重政は空摺の独特の技法を活かし、馬の存在感をより強調したのです。 

当店蔵書はアダチ版画の復刻版です。

夏の風物詩を灯籠流しの起源とは?謎のゆりかもめの灯籠ながしが隅田川で人気に!有名団子やの入銀がきっかけ?

隅田川灯篭流し涼の真景
版元 長谷川?
画工 歌川国貞三世
浮世絵カフェの蔵書

三社祭りが5月におわって浅草周辺では毎週のように夏イベントが実施されます。植木市、ほおずき市、隅田川の花火大会、灯篭流しへと。。。

本作品である「隅田川灯籠流し涼の真景」は明治11年に3代歌川国政によって描かれました。

現在ひろく知られる「隅田川とうろう流し」は、昭和21年(1946年)に終戦後の慰霊と浅草復興祭の一環として最初に行われました。関東大震災や東京大空襲など、隅田川沿岸で犠牲となった多くの方々の霊を弔い、平和を祈る法要として開始されました。現在では浅草隅田の夏三風物詩となっています。

 国貞が描いたこちらの浮世絵は珍しい作品です。

  1. ちりめん加工されている。(ぼろいだけという説もありますがちりめん絵ということで仕入れてますが・・・)ちりめんとは和紙で作られた浮世絵を木槌でたたいて加工してしわしわな手触りをたのしむ本や浮世絵です。 
  2. 江戸後期から明治11年までに実際に催した灯篭流しの風景と推測しますが、灯篭が「ゆりかもめ」?しかも大量で異様な光景です。

 これまで国書など調べていますが所以がわからなかった作品です。いつからゆりかもめの灯籠流しがはじまったのか?なぜ途絶えて誰もしらないのか?時期と理由をふくめて謎が多い画なのです。なお、江戸時代以前からゆりかもめは「都鳥」とも呼ばれていました。現在は東京都民の鳥としてなじみ深い鳥です。

絵の見どころ。

本作品の解説は探したが見当たらずですが、数点わかる範囲でご案内します。

  • ゆりかもめの灯籠が木船に張り子で作られてます。画だからこそ本物か?と見間違うレベルで再現されている。すごい!明治11年前後にはゆりかもめで灯ろう流しする慣習があったのかも?
  • ゆりかもめを釣り上げている竿がある(真ん中の絵) つりかもめを釣り竿で釣っていた?もしくはリリースしていたと思われます。さらに遠目には巨大ゆりかもめも認められます。
  • 屋形船には役者や柳橋の芸者が便乗していると思われます。
  • 背景には筑波山まで見通せる風光明媚な場所(森真崎周辺;現在の白髭橋周辺だと推測します)
  • 時期は川開き以降で5月28日以降の3か月以内だと思われます。

大川(隅田川)両国の川開きは旧暦5月28日の川開きから川じまいの8月28日まで、両国橋のたもとの広小路や川端に芝居小屋や露店、屋台の夜店の出店が期間限定で許可されました。船宿や料理茶屋が客をもてなす納涼船も許可されました。八代将軍・徳川吉宗の時代、享保18(1733)年の川開きに初めて花火が打ち上げられ、これが現在の隅田川花火大会の起源とされています。許可された3カ月の納涼期間中の灯籠流しは実施されたと思われます。

■灯籠流しは言問団子の広告が起源か? 

言問団子のはじまりは、明治元年(1869)「植佐」と呼ばれた植木職人・外山佐吉が、隅田川の堤に茶店を開き、団子を売り始めたのが始まり。商品名の由来は在原業平が詠んだ『古今和歌集』に、都鳥に“言問う”という語があった。その古歌にちなみ、団子に『言問団子』としたそうだ。

「名にしおはば 言問はん都鳥 我が思ふ人は ありやなしやと」

墨水流燈会之記
明治20年刊
版元 新七(言問団子二代目)

【画工紹介】

梅堂国政 バイドウ クニマサ(四代国政→明治22年歌川国貞三代を襲名)

江戸日本橋に生まれる。本名は竹内栄久。幼名は期太郎。四代歌川国政。15歳で初代歌川国貞門下に学びはじめたが、3年後に師匠がなくなった。その後は二代国貞に学んだ。1889(明治22)年に三代香蝶楼国貞を襲名。一寿斎、香蝶桜とも号し、国貞襲名以降は豊斎、芳斎などと称した。南総里見八犬伝、桃太郎鬼ヶ島でん、赤穂義士村松三太夫伝など表紙と挿絵を多数描いた。また役者絵や明治の開化絵として蒸気機関車を多数のこした。

当世美人色競べ・山下花(とうせいびじんいろくらべ・やましたのはな)

•	画工;北尾政演 
• 版元 不明
• 制作年 天明期?

当世風(最新)のファッション誌的な位置づけの美人画シリーズです。

江戸で当時に流行していた髪型や華麗な小袖模様の着物。 仕草の粋さなど江戸女性の流行美が描かれています。

単なる肖像ではなく、“江戸の流行そのもの”を描いた作品といえます。

北尾政演(山東京伝)の傑作といえる「当世美人色競べ・山下花」揃いもの(シリーズ)美人画です。当店で展示しているのは復刻版です。

本作品は描かれた時期と版元ははっきり分かっていません。蔦屋重三郎・西村屋与八・鶴屋喜右衛門などの可能性がありますが、おそらくは蔦屋ではないと思われます。

多色摺りの豪華な錦絵になっており構図・描線などから画工、政演のポテンシャルが発揮された優れた作品と言われます。「当世美人色競べ」はのちに刊行される名作の「吉原傾城 新美人合自筆鏡」にはない上品な雰囲気。描線が力強いのも特徴です。個人的には清長風?とも感じる色彩感覚です。

モデルになった女性達は、台東区上野、山下地区の住人で「けころ」という私娼だったという説があります。「けころ」とは蹴転ばし(けころばし)が略された表現です。女郎と手軽に遊ぶことを「転ぶ」と揶揄したという説もあります。

当時の江戸では政演は比類するものはない、間違いなくトップ作家でありアーティストでした。青楼を知り尽くした本当の通人だった政演は、大店の花魁から下級河岸の女郎まですべての女性を慈しみ、艶、美を見出していたのです。低い身分の「けころ」が軽視されていた面もあったようですが、若い女性らしく流行に敏感な一面もあることを可憐な仕草と当時の流行のファッションで「けころ」の3人を描いています。

小野𦽳譃字盡(おのばかむらうそじずくし)

作:式亭三馬 (1776年〜1822年)
刊: 文化3年
板元:青雲堂/英/文藏

式亭三馬の言語感覚の鋭さを示す作品として、『浮世風呂』と並び注目されるのが、小野𦽳譃字盡(おのばかむらうそじづくし)である。江戸後期の寺子屋では往来物「小野篁歌字尽」(おのたかむらうたじづくし;著者不明)を現代でいえば国語の教科書として「文字を短歌と風俗」学んだ。これをパロディしたのが小野𦽳譃字盡(おのばかむらうそじづくし)である。

本作は文化期に刊行された滑稽本の一種であり、「嘘字」「偽字」(うそ・言い違い・誤用)といった言語現象を主題とした点において、極めて特異な位置を占める。

タイトルの𦽳(ばかむら)という文字は小野「篁」に愚かをミックスした嘘字。篁の名前をパロディした創作文字で実際に𦽳(ばかむら)という文字はなかった。これが譃字である。

題名に見える「𦽳譃(ばかむらうそ)」とは、無知や思い込みから生じる誤った言葉遣いを指し、三馬はこれを戯画的に提示することで、江戸庶民の言語生活の実態を浮かび上がらせている。作品中には、知識をひけらかそうとする人物が誤った漢語を用いて失笑を買う場面や、意味を取り違えた言葉が会話の中で連鎖的に拡大していく様子が描かれ、読者はその滑稽さを楽しむと同時に、言葉と知識の関係について自覚的に意識させられる構造となっている。これが偽字である。

本作の重要性は、単なる言葉遊びにとどまらず、江戸社会における「教養」の受容過程を可視化している点にある。寺子屋教育の普及により文字知識が広がる一方で、それが必ずしも正確な理解を伴わない場合が多かったことは、本作に描かれる誤用の多様さからも窺える。すなわち三馬は、言語の誤りを笑いへと転化しつつ、知識の階層差や模倣の心理といった社会的側面を鋭く描き出しているのである。

このような視点は、『浮世風呂』における会話描写とも深く連動している。同作においても、登場人物たちはしばしば言い誤りや聞き違いを繰り返しながら会話を展開させており、そのズレが笑いを生むと同時に、人物の性格や社会的立場を示す手がかりとなっている。したがって『小野𦽳譃字盡』は、『浮世風呂』の言語表現を理論的に裏付ける作品とも位置付けられ、式亭三馬文学の言語的基盤を理解するうえで不可欠な資料である。

さらに、本作は江戸語の具体的な用例を豊富に含む点において、近世語研究の資料としても高い価値を有する。誤用という形で提示される言葉の数々は、当時の人々がどのように漢語や専門語を受容し、日常会話の中で変形させていったかを示す貴重な証言であり、三馬の観察眼の鋭さを改めて裏付けるものである。

嘘字尽くしの最後は自らの式亭三馬の名前で嘘字をつくっています。3つの馬が並ぶ嘘字をつくってジョークで締めくくっている。江戸文学の自由度の高さを感じます。現代の出版業ではフォントがないとPCでは表示できませんが、嘘字。偽字のアイデアが成立するのは彫師が自由に文字を彫ることができる木版画だからこそ。現在のPCではフォントがないので表現できない書籍ですね。

補足

■小野バカムラウソ字尽[小野の馬鹿村虚字尽]
(文化3年・原装本)
【判型】中本1冊。縦180粍。
【作者】式亭三馬(游戯堂)作・序。楽亭馬笑(楽山人・楽斎)校。歌川豊国(三世)画。
【年代等】文化3年1月刊。
[板元]上総屋忠助原板。西村屋与八後印。

【備考】分類「滑稽本」。『〈道外節用〉小野バカムラウソ字尽[小野の馬鹿村虚字尽]』は、『小野篁歌字尽』に似せて作った本文を始め、語彙を中心とする種々のパロディを集めた往来物風の滑稽本。本文は「+春(うわき)・+夏(げんき)・+秋(ふさぎ)・+冬(いんき)・+暮(まごつき)」のように字形の似た俗字を集め、さらに「春うはき夏はげんきで秋ふさぎ、冬はいんきで暮はまごつき」といった狂歌を添える。また、後半の「編冠構字尽」「五性名頭字尽」「異類異名尽」「妄書(むだがき)かなづかひ」「手の筋早見」「どういふもんだ痕紋図説」「人相小鑑」「人相図論」「諸流小謡」のほか、前付・頭書等に種々の戯文を載せるが、「胸算用早割乃法」「じれ子さん」「年中通用文章」「紋づくし」「〈大篆・小篆〉似字尽」「無礼不躾方」など、いずれも往来物のもじりである。

風流無くてななくせ[遠眼鏡](ふうりゅうなくてななくせ とおめがね)

版元 耕書堂 (蔦屋重三郎 2代目)
絵師 葛飾北斎
制作年 享和年間/1801年~1804年
復刻版 大正期

耕書堂では非常に珍しい葛飾北斎(1760~1849)が絵師をつとめた大首絵の美人図です。初代蔦屋重三郎と北斎は草双紙で挿絵の仕事が多かったが、2代目蔦屋重三郎と北斎は初代に負けじと挑戦したのが本図の大首絵だったのでしょうか。
「可候」と名乗っていた時期の作で、絵の右上に「可候画」の落款があります。日傘を手にしたお歯黒で眉をそり落とした武家の妻と、島田髷の若い娘が大きく描かれています。二人はおそらく母娘という設定です。娘は和製と思われる朱塗りの遠眼鏡をのぞいています。18世紀の江戸では舶来品として望遠鏡が人気でした。
「ななくせ」というタイトルから、女性たちが無意識のうちに出してしまう「癖」を主題にした7枚揃とも考えられますが、他に「ほおずき」と通称される図が知られているだけです。「ほおずき」には手鏡が描かれており、新奇なガラス製品をあしらうシリーズものだったのかもしれません。本図は、しかめっ面で遠眼鏡に夢中になっている娘の「癖」を、母親がたしなめている場面とも解釈されます。なぜなら、川柳もたしなんだ北斎は次のような句を詠んだからです。「皮切りといふ面で見る遠眼鏡」(初めてお灸をすえられた時のように顔を歪ませて覗く望遠鏡)

参考 文化遺産オンライン

夫従以来記(それからいらいき)

~江戸時代の未来予想パロディ~

板元  耕書堂
戯作者 竹杖為軽 たけづえ すがる
画 喜多川歌麿
刊行 1784年 天明四年
黄表紙 上中下の3巻


蔦屋重三郎がプロデュースした黄表紙。未来の江戸をパロディで紹介したストーリーなのだが現代人が読むと当時は本当にあったことなのか?と錯覚する内容も。江戸時代のユーモアを直球で感じることができる作品だ。

本作の戯作者 竹杖為軽(本名 森嶋中良)(1756?~1810)は平賀源内の弟子で、狂歌師、戯作者として、森羅万象、万象亭などの名前でも知られる。挿絵は20代の喜多川歌麿。

竹杖は奥外科医桂川家3代目と寄合医師大八木家4代目の家系で蘭学者としても活躍した。源内も嫉妬するほど戯作の才能もあったようで、源内が獄死する前に叱責を得て確執が生じたまま竹杖と源内は離別した。蘭学にも注力して『紅毛雑話』、寛政2年に『万国新話』『琉球談』など刊行した。1801年に二代目風来山人を襲名、文化5年より二代目福内鬼外を名乗って平賀源内の門人として人生を終えた。

蔦屋重三郎は竹杖の才能を早くから見抜き歌麿とのコンビで本作を刊行した
ストーリーの起点は聖徳太子の「未来記」までさかのぼる。未来記をパロディとした恋川春町の黄表紙「無益委記(むだいき)」は好評を博した。さらに恋川春町にインスパイヤされた朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)(1735~1813)も「長生見度記(ながいきみたいき)」で未来記を書いている。それにならって本作「従夫以来記(それからいらいき)」(1784刊)を書いたとも説明している。本作ではただの未来予想図ではなく、当時の江戸を通と穿をパロディした異世界の作品となっている。吉原連(狂歌のあつまり)で竹杖と親交が篤かった四方赤良(よものあから)(大田南畝(おおたなんぽ))、朱楽菅江(あけらかんこう)、加保茶元成(かぼちゃのもとなり)、元の木網(もとのもくあみ)も本作に名が出ており笑いを誘うネタになっている。

個人的に好きなのストーリーが9つ目の噺の「引きずり風呂」だ。当時の吉原には移動風呂があったという異世界の噺。遠山の金さんのように流行の女の生首の刺青を入れた男性が風呂に入っている。実際にはなかった「引きずり風呂」を歌麿が想像して描いた異世界の銭湯。こんなシュールな挿絵を歌麿が書いていたとのかと驚きもある。江戸時代の未来予想異世界は浮世絵カフェに展示中なので遊びに来てください。