蔦重の世界に浸り浮世絵を眺めながら
こだわりコーヒーが飲めるカフェ
- 浅草 吉原 浮世絵カフェ 蔦重 -




大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の主人公である蔦屋重三郎は新吉原大門前の五十間通り左側に店を構えていました。
浮世絵カフェは台東区千束4丁目11番地と蔦屋重三郎が耕書堂のほぼ発祥地に所在します。正確な場所は不明ながら「吉原細見」の地図を見る限り、浮世絵カフェのある場所が耕書堂のあった場所の近くだと推測されます。
浮世絵カフェでは耕書堂が扱っていた書籍や浮世絵を展示販売します。蔦重と絵師・戯作者の北尾重政・恋川春町・朋誠堂喜三二・山東京伝・歌麿・写楽・北斎たちがつくった江戸時代の「オリジナル」和書や、浮世絵を常時30~作品ほど展示します。あわせて現代摺師彫師の作品を展示販売します。江戸時代から変わらない伝統技術を継承している本物の手摺木版画を見て、触って購入できます。
入館無料です。浮世絵カフェは名前そのままで、浮世絵を愉しみながらおいしいカフェタイムを過ごしていただく店舗です。ハンドドリップ珈琲や自然栽培のお茶とあわせて本物の「手摺木版画」の世界を体験してください。
ニュース
浮世絵今昔~コラム
- 歌川芳虎 錦絵『明烏夢泡雪』の背景と魅力 2026年10月2日
【作品基本情報】・作者(絵師): 歌川芳虎(うたがわ よしとら)・刊行年: 嘉永4年(1851年)3月・板元(版元): 加賀屋吉兵衛(かがや きちべえ) 一、江戸を震撼させた実在の悲恋——「三河島心中事件」の真相 本作『明烏夢泡雪(あけがらす ゆめの あわゆき)』は、江戸時代に実在したショッキングな情死事件をモチーフにしています。江戸の人々を涙させたこの悲恋の引き金となったのは、明和6年(1769年)7月3日に発生した心中事件でした。 ・明和6年(1769年)7月3日(または明和3年説あり)・ 江戸郊外の三河島(現在の東京都荒川区周辺)の田んぼ、あるいは山谷堀近くの宮戸川(隅田川)・浅草蔵前の札差(または呉服屋)伊勢屋の若旦那(養子)であった伊之助と、吉原の「蔦屋」に籍を置いていた遊女・三吉野(みよしの)・ 身分違いの恋ゆえに、決して添い遂げられない厳しい現実を儚み、来世での結ばれを誓って「情死(心中)」を選びました。※諸説あります。 当時の江戸における吉原の遊女は、多額の借金(前借金)のカタに縛られた自由のない身でした。一方の伊之助は、莫大な富を動かす蔵前の札差という裕服な商人の跡取り息子です。二人は深い相思相愛の関係になりますが、遊女の身請けには法外な金が必要であり、また格式ある商家の世継ぎが遊女を正妻に迎えることは世間体が許しませんでした。 義理や格式、金銭の束縛といった「廓の厳しい掟」と「世間の目」に追い詰められた二人は、ついに吉原を抜け出し、当時は静かな農村地帯であった三河島の地(あるいは川沿い)へと向かいます。夏の夜の明け方、カラスの鳴き声が響く中で命を絶った二人の痛ましい姿は、当時の江戸市中に瞬く間に広まり、人々の同情を誘う大事件となりました。 二、事件から芸能へ——脚色された『明烏夢泡雪』 この悲劇的な事件をいち早く芸能に昇華させたのが、江戸浄瑠璃の一種である「新内節」の創始者・初代鶴賀若狭掾です。安永元年(1772年)に発表された新内『明烏夢泡雪』では、登場人物の名前が「春日屋時次郎」と「山名屋浦里」へと置き換えられ、よりドラマチックな物語へと脚色されました。 物語のクライマックスである「雪責め」の段では、時次郎に会いたい一心で掟を破った浦里が、怒った山名屋の主人によって雪の降る奥庭の古木に縛り付けられ、厳しく責め立てられます。そこへ時次郎が駆けつけ、彼女を救い出して命がけの逃避行へと向かう姿が描かれます。三河島での凄惨な心中事件の記憶は、こうした美しい「雪と悲恋」のビジュアルへと昇華され、江戸のエンターテインメントとして定着していきました。 三、嘉永四年の芝居熱と絵師・歌川芳虎の筆力 本作が刊行された嘉永4年(1851年)3月、江戸の「市村座」ではこの明烏ものをベースとした清元節の舞踊劇『明烏花濡衣』が上演され、空前の大ヒットを記録していました。主役の時次郎を演じたのは、当時絶大な人気を誇り、のちに悲劇的な最期を遂げることでも知られる美貌の天才役者・八代目市川團十郎です。そして浦里役は、女方の名優・初代坂東しうかが務めました。 絵師の歌川芳虎は、名匠・歌川国芳の門人であり、師譲りのダイナミックな構図と生き生きとした人物描写を得意とした絵師です。芳虎は、舞台上の團十郎としうかが醸し出す、緊迫感とエロティシズムが入り混じった一瞬の美事を見事に捉え、錦絵のなかに定着させました。雪の白さと役者の鮮やかな衣装のコントラスト、配置された線の鋭さによって、二人の秘めたる情熱が力強く表現されています。 四、版元・加賀屋吉兵衛が果たしたメディアの役割 この錦絵を出版した加賀屋吉兵衛は、当時の江戸を代表する有力な板元(版元)の一つです。当時は、人気の舞台が上演されると同時に、その名場面をいち早く美しく刷り上げてファンに届けるという、現代のプロマイドやグラビア雑誌のような商業システムが確立されていました。加賀屋吉兵衛の手腕と芳虎の画力、操作された流通網、そして実在の心中事件から紡がれた「明烏」の伝統的なストーリーが見事に融合した本作は、当時の江戸庶民が熱狂した歌舞伎文化と、出版メディアの隆盛を今に伝える貴重な歴史的資料と言えます。More - 太閤五妻洛東遊観之図 2026年9月25日
喜多川歌麿 画 | 1804年(文化元年) | 大判錦絵三枚続※浮世絵カフェ蔦重の蔵書は復刻木版画です。 絵本太閤記の流行と作品 「太閤五妻洛東遊観之図」は、喜多川歌麿が豊臣秀吉とその妻たちを題材に描いた大判錦絵三枚続です。制作年は1804年(文化元年)。題材の背景には、武内確斎作・岡田玉山画『絵本太閤記』の流行がありました。同書は1797年から1802年に刊行され、秀吉の生涯を挿絵とともに描きました。その人気は錦絵にも広がり、歌麿をはじめとする絵師たちが太閤記に関連する作品を手がけました。 歌麿が描いた華やかな遊観 本作は秀吉と女性たちの洛東での遊観を描きます。三枚続の横長の画面に人物を配し、華やかな衣装や女性たちの表情を見せる構成は、歌麿が得意とした美人画の表現を生かしています。歴史上の題材に当時人気の美人画を重ねたところに、この作品の特徴があります。 幕府による取締り 江戸幕府は、天正年間以降の武将を実名や紋所などで特定できるように描く出版物を規制していました。本作には「太閤秀吉公」など人物を示す記載があり、『絵本太閤記』を題材とする錦絵が広く出回るなか、取締りの対象となりました。1804年には歌麿のほか、歌川豊国ら関係する絵師・版元にも処罰が及び、関連の書物や錦絵は絶版とされました。 入牢三日と手鎖五十日 歌麿は入牢3日のうえ、手鎖50日の処罰を受けたと伝えられています。入牢は牢に収容されること、手鎖は手を拘束して行動を制限する刑罰です。ただし、処罰の日数には史料による異同があるため、ここでは伝承として記します。歌麿はその後も制作を続け、1806年に没しました。処罰と死の直接の因果関係は確認できません。 出版文化を伝える作品 本作からは、読本の流行が錦絵へと広がった当時の出版文化と、その題材を統制しようとした幕府の動きが読み取れます。歌麿の美人画の魅力と、1804年の筆禍をともに伝える作品です。 資料と表記について 参考:The Metropolitan Museum of Art, “Triptych of the Taikō and His Five Wives Viewing Cherry Blossoms in the Eastern Hills” (作品情報・制作年1804年);立命館大学アート・リサーチセンター「『絵本太閤記』の世界」;太田記念美術館の歌麿筆禍解説。More - 雛形若菜初模様』作品解説 2026年9月7日
1.『雛形若菜初模様』シリーズ概要 ― 吉原の遊女と最新ファッションを描いた華麗なる美人画 作品名:雛形若菜初模様(ひながたわかなのはつもよう)絵師:礒田湖龍斎(いそだ こりゅうさい) 鳥居清長版元:西村屋与八(永寿堂)・蔦屋重三郎(耕書堂)〔シリーズ初期〕刊行年:安永4年(1775)頃~形式:大判錦絵・揃物 『雛形若菜初模様』は、江戸・新吉原の実在する遊女たちを、華麗な衣裳とともに描いた礒田湖龍斎の代表的な美人画シリーズである。安永4年(1775)頃から刊行され、絵師は鳥居清長に引き継がれて100図を超える大規模な揃物へと発展した。湖龍斎と鳥居清長の代表作であると同時に、江戸時代の美人画史を考えるうえでも重要な作品である。 題名にある「雛形」とは、衣裳や染織、模様などの見本を意味する。「初模様」は新年に向けて新調された晴れ着の意匠を指し、本作では吉原の人気遊女たちが、趣向を凝らした最新の衣裳をまとって登場する。そのため本シリーズは、美人を鑑賞する浮世絵であると同時に、江戸の人々に最新の流行を伝える、いわば「江戸時代のファッションカタログ」としての性格を持っていた。 画中には遊女の姿だけでなく、所属する妓楼の名や遊女名が記されている。鑑賞者は単なる理想化された美人を見るのではなく、「吉原のどの店の、誰であるか」を知りながら作品を楽しむことができた。現在の感覚でいえば、人気モデルや芸能人が最新ファッションを披露する雑誌や広告にも似ている。吉原の遊女は美貌だけでなく、衣裳、髪形、立ち居振る舞い、教養などを含めて江戸の流行を先導する存在でもあり、その華やかな姿は吉原を訪れない人々にとっても憧れの対象であった。 湖龍斎は、衣裳の模様や帯の意匠を細部まで丹念に描きながら、それぞれの遊女の姿態や雰囲気にも変化を持たせた。錦絵ならではの鮮やかな多色摺によって、豪華な打掛や帯、季節を象徴する文様が画面いっぱいに展開される。美人そのものと同じほど衣裳が重要な主役となっていることが、このシリーズの大きな特徴である。 出版史の面で特に注目されるのが、シリーズ初期に西村屋与八と蔦屋重三郎が共同版元として名を連ねていることである。西村屋与八は江戸を代表する有力な地本問屋であった。一方、この時期の蔦屋重三郎は、吉原を活動の基盤として出版界へ進出し始めた若い版元である。初期の約12図に両者の版元印が確認され、その後は西村屋が単独で出版を継続したと考えられている。 この共同出版は、蔦重の出版人としての成長を考えるうえで興味深い。蔦重は吉原に生まれ育ち、遊女や妓楼、年中行事、流行など吉原内部の情報に精通していた。安永3年(1774)には吉原細見『細見嗚呼御江戸』の出版に関わり、さらに吉原の遊女を花に見立てた『一目千本』など、吉原文化そのものを魅力的な出版物へ変えていった。『雛形若菜初模様』もまた、その延長線上に位置する作品といえる。 つまり本作では、西村屋の出版力、湖龍斎の描写力、そして蔦重が熟知していた吉原の情報と流行が結びついたのである。実在の人気遊女、最新の衣裳、華麗な錦絵という三つの要素を組み合わせることで、吉原そのものが一つの魅力的な「ブランド」として江戸市中へ発信された。 シリーズは好評を博し、蔦重が共同出版から離れた後も西村屋によって刊行が続けられた。やがて湖龍斎から鳥居清長へ引き継がれて雛形若菜の表現はさらに発展していく。そして蔦重自身も後年、喜多川歌麿を起用し、吉原の遊女や市井の女性をスターとして世に送り出すことになる。 『雛形若菜初模様』は、華麗な遊女美人画であるだけではない。吉原という盛り場が生み出す「美人」「衣裳」「流行」「情報」を出版商品へと変えた作品であり、江戸のファッション文化と浮世絵出版が密接に結びついていたことを今日に伝えている。 そして蔦屋重三郎の出版史から見れば、本作は老舗版元・西村屋与八との共同出版を通じて、吉原を舞台とした出版から本格的な錦絵出版へ活動を広げていく時期を示す重要な作品である。後に歌麿とともに美人画の新時代を築く蔦重。その原点の一つを、『雛形若菜初模様』に見ることができる。 2.『雛形若菜初模様 越前屋内 もろこし』 「もろこし」 Museum of Fine Arts 「白つゆ」ボストン美術館「瀬川」 国立文化財機構所蔵品統合検索システム 絵師:礒田湖龍斎 版元:蔦屋重三郎・西村屋与八 刊行:安永4~5年(1775~76)頃 形式:大判錦絵 展示作品:江戸期のオリジナル版木を利用した後摺と思われる(耕書堂印のみで西村屋印が削除されている。)University of Wisconsin-Madisonと同じ作品 本図に描かれている「もろこし」は、新吉原・江戸町一丁目の妓楼「越前屋」に所属した遊女である。湖龍斎は、華麗な衣裳をまとったもろこしが、小さな男児を頭上に高く抱き上げ、その傍らに禿が立つ姿を描いている。高位の遊女を静的な美女として見せるのではなく、子供と戯れる一瞬を捉えた、親しみと動きに満ちた一図である。同時に、豪華な着物や帯の意匠は「雛形=衣裳見本」という本シリーズの特徴をよく示している。 興味深いのは、「もろこし」という名前である。約18年後の寛政期になると、同じ越前屋に「唐土(もろこし)」という名妓が登場する。鳥文斎栄之は『青楼美人六花仙』で唐土を百合に見立て、短冊を前に歌を考える教養豊かな女性として描いた。さらに寛政6年(1794)、喜多川歌麿も『当時全盛美人揃』で「越前屋内唐土」を描き、当代を代表する美人として紹介している。 安永期の「もろこし」と寛政期の「唐土」が同一人物とは考えにくく、越前屋で「もろこし」という遊女名が受け継がれていた可能性が考えられる。確証にはなお史料調査を要するものの、もし名跡として継承されたのであれば、それは「もろこし」が越前屋を象徴する特別な名前であったことを示している。 そして本図は、若き蔦屋重三郎が西村屋与八と共同で刊行したシリーズ初期の作品でもある。湖龍斎が描いた安永期の「もろこし」から、約二十年後に栄之や歌麿が描く「唐土」へ――。一人の遊女名を追うことで、吉原の歴史とともに、湖龍斎から栄之・歌麿へと移り変わる江戸美人画の系譜まで見えてくる。さらに展示作品については、珍しい細工がされている。本来は西村屋と耕書堂の押印の2つがあるはずが、西村屋印だけが削除されている。本作は江戸後期の後摺と思われるが、販売した版元が西村屋だけを外した理由は不明だ。後摺のばあいは、版木を保有している、版元印に書き換えることが普通である。推測ではあるが、西村屋印を落として蔦屋重三郎の2代目か3代目かが後摺したと考えるのが自然だと思われる。初代が西村屋に出し抜かれた経緯を考えると、この後摺をつかって西村屋へリベンジしたことになる。このような物語を考えることも浮世絵の愉しみ方のひとつ。人気作品については、版木が売却されたり、再刻されてながく使われていく。版木を著作権管理のルーツとして考えると、版木の再利用の過程や流通を考えさせられる非常に興味深い一枚である。 3.『雛形若菜の初模様 若那屋内 しら露 花の・なみし』 作品名:雛形若菜の初模様 若那屋内 しら露 花の・なみし絵師:礒田湖龍斎版元:西村屋与八刊行:安永7年~天明元年(1778~81)頃形式:大判錦絵展示作品:江戸期の後摺と思われる 本図は、吉原の大見世「若那屋」の遊女・しら露(白露)と、二人の禿「花の」「なみし」を描いた一枚である。若那屋は吉原を代表する有力な妓楼の一つで、後世の『吉原細見』などにもその名が見え、主人は「若那屋八左衛門」の名を代々受け継いだとされる。画面では、華やかな衣裳をまとったしら露を中心に禿を従わせ、遊女個人の美貌だけでなく、大見世に所属する高位の遊女が備えた格式と豪奢な装いを印象づけている。 しら露は湖龍斎の別の版本にも登場する。安永6年(1777)の『吾妻錦松の位』には、若那屋の「しら露」が禿を伴って記されており、本図と近い時期に実在した若那屋の有力遊女であったことがうかがえる。本図の「花の」「なみし」も、しら露に付き従う禿(背丈から思慮すると新造の可能性あり)の名であり、花魁だけでなく禿まで実名で紹介する点に、『雛形若菜初模様』が吉原の最新情報を伝えるメディアでもあったことがよく表れている。 さらに興味深いのは、「白露」の名がその後も若那屋を代表する名妓として現れることである。寛政6~7年(1794~95)頃には、喜多川歌麿が『青楼七小町』で「若那屋内白露」を描き、寛政6年頃の『名取酒六家選』男山のお酒の広告にも白露が登場する。安永期のしら露と寛政期の白露が同一人物か、あるいは若那屋で受け継がれた遊女名なのかは断定できない。しかし、約二十年にわたり「白露」の名が若那屋と結びついて浮世絵に登場する事実は注目される。湖龍斎から歌麿へ――本図は、吉原の名妓と美人画の系譜をつなぐ重要な一枚といえる。 4.『雛形若菜の初模様 松葉屋内 瀬川』 作品名:雛形若菜の初模様 松葉屋内 瀬川 さゝの・竹の絵師:鳥居清長版元:西村屋与八刊行:天明期(1780年代前半)形式:大判錦絵展示作品:江戸期の後摺と思われる。 本図は、吉原を代表する妓楼の一つ「松葉屋」の名妓・五代目瀬川と、二人の禿「さゝの」「竹の」を描いた作品である。「瀬川」は松葉屋を代表する遊女が代々襲名した名跡であり、吉原でも特に名高い遊女の名であった。 画面でまず目を引くのは、中央に立つ瀬川の堂々とした姿である。清長は女性の身体をすらりと長く描くことで知られ、本図でも湖龍斎時代の美人画とは異なる、伸びやかで洗練された女性像をつくり出している。あらたに絵師を鳥居清長に変えて雛形若菜シリーズのイメージを刷新した記念の作品でもある。その傍らに二人の禿を配することで、瀬川の高い格式と華やかな存在感がいっそう際立っている。 注目したいのは三人の衣裳である。瀬川と禿には共通する意匠が用いられ、主従が一体となって装う華麗さそのものが、松葉屋と瀬川の格式を示している。「雛形=衣裳見本」というシリーズの性格が、非常によく表れた一枚である。 このシリーズは礒田湖龍斎が長く手掛けたが、後期には鳥居清長が作画を引き継いだ。清長は遊女を単なる衣裳のモデルとしてではなく、長身で健康的な身体を持つ女性として表現し、美人画に新しい時代をもたらした。本図は、湖龍斎から清長へと美人画の主役が移っていく時代を象徴する作品としても重要である。More - 江戸花京橋名取 山東京伝像 (さんとうきょうでん) 2026年9月5日
細田栄里( 鳥橋斎栄里)画 刊行年 1795年(寛政7年)頃 本肖像画は35歳前後の山東京伝 (1761-1816)と云われている。背景に黒雲母摺が奢られる豪華な作品でスター作家として相応しい。この肖像は現在でいえばブロマイド。京伝の出生は深川木場。実家は質屋を営み京橋で育った。本名は岩瀬醒(いわせさむる)。通称を伝蔵とよばれる。山東京伝という名前は、“江戸城の紅葉山の東、京屋(京橋)の伝蔵”に由来する。京伝は吉原きっての通人として右に出るものはなく、若い頃から三味、音曲を多数習い、さらに北尾重政から絵を学んだ。北尾政美(鍬形蕙斎)や窪俊満は同門である。生涯にわたって2度の結婚をしたが、妻になったのはふたりとも吉原の遊女だった。大変な愛妻家としても知られている。 京伝にとって煙管(きせる)はアイコンでもある。彼が自らデザインした煙草入れ販売していたこと象徴する絵でもある。着物の紋は巴山人紋で京伝は、幼い頃に父親から巴山人の印鑑を貰い生涯大切にした。京伝の多くの作品にこの巴山人の落款がある。同じく父に数え年九歳で寺子屋に入る際に貰った文机(京伝机)も大切にしていました。文机をすり減るほどに使い切ったことは知られた逸話です。この机について京伝が「耳もそこね あし(足)もくしけて もろともに 世にふる机 なれも老いたり」と歌に詠んでます。京伝は人の思いを永く大切にできる人情深い人柄だったようです。More
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土日 9:30~18:00
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TEL: 03-5808-9448





























