蔦重の世界に浸り浮世絵を眺めながら
こだわりコーヒーが飲めるカフェ
- 浅草 吉原 浮世絵カフェ 蔦重 -




大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の主人公である蔦屋重三郎は新吉原大門前の五十間通り左側に店を構えていました。
浮世絵カフェは台東区千束4丁目11番地と蔦屋重三郎が耕書堂のほぼ発祥地に所在します。正確な場所は不明ながら「吉原細見」の地図を見る限り、浮世絵カフェのある場所が耕書堂のあった場所の近くだと推測されます。
浮世絵カフェでは耕書堂が扱っていた書籍や浮世絵を展示販売します。蔦重と絵師・戯作者の北尾重政・恋川春町・朋誠堂喜三二・山東京伝・歌麿・写楽・北斎たちがつくった江戸時代の「オリジナル」和書や、浮世絵を常時30~作品ほど展示します。あわせて現代摺師彫師の作品を展示販売します。江戸時代から変わらない伝統技術を継承している本物の手摺木版画を見て、触って購入できます。
入館無料です。浮世絵カフェは名前そのままで、浮世絵を愉しみながらおいしいカフェタイムを過ごしていただく店舗です。ハンドドリップ珈琲や自然栽培のお茶とあわせて本物の「手摺木版画」の世界を体験してください。
ニュース
浮世絵今昔~コラム
- 「青楼後朝雨」(せいろう きぬぎぬのあめ) 2026年6月6日
版元;蔦屋重三郎画師;栄松斎長喜刊行年;寛政4年から10年 当店の蔵書は昭和年代の複製出典;画像はボストン博物館 『青楼後朝雨』 は、寛政期を代表する浮世絵師・栄松斎長喜による美人画である。描かれた場所は大店の松葉屋の花魁、禿達の朝の様子を描いたようです。後朝の花魁の気持ちを代弁したようなウエット的(雨)な発句が寄せてあり、題名の後朝の雨につながっているようです。「後朝(きぬぎぬ)」とは男女が契りを交わした翌朝を意味し、平安文学以来の恋愛表現として広く知られていた。本図は吉原遊郭を舞台に、客との別れの後に訪れるけだるく物寂しい朝の情景を描いている。 この作品は単なる「美人画」ではなく、吉原文化の物語性を一枚の画面に凝縮した作品として評価できます。 「後朝(きぬぎぬ)」とは本来、 遊客が帰る朝 男女が別れる朝 交歓の余韻が残る時間 を意味します。江戸の吉原では、客は明け六つ(早朝)まで滞在し、その後に大門から帰りました。 長喜はこの瞬間を、 雨 朝の静寂 女性の仕草 によって詩的に表現しています。雨は単なる気象表現ではなく、「恋の名残」「別離の寂しさ」を象徴していると考えられます。遊女の心に残る恋の余韻や別離の哀感を象徴する。こうした情緒性は、華やかな吉原文化の裏側にある人間の感情を描き出したものとして高く評価される。 余談ですが、後朝をテーマにした和歌が平安時代の源氏物語や万葉集などに多数掲載されています。「後朝の文(ふみ)」と言って、帰宅後に男性から女性に手紙や和歌を送る風習がありました。江戸時代でも廓の女郎がマブと手紙のやりとりをしていたようです。 源氏物語から後朝の文の一例。 見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちに やがてまぎるる我が身ともがな これは、光源氏が義母と禁断の恋愛での光が後朝に詠んだものです。 【栄松斎長喜】 長喜は鳥山石燕門下に学び、喜多川歌麿と同門の絵師であった。出自も年齢も不明確で謎多き絵師でした。歌麿が女性の表情や心理を大首絵によって追求したのに対し、長喜は全身像による優雅な姿態表現を得意とした。細長い首、しなやかな身体、流れるような衣文線は長喜独自の様式であり、本図にもその特色が顕著にみられる。 長喜は版元・蔦屋重三郎に見出され、歌麿・写楽と並ぶ重要な絵師として売り出された。ポスト歌麿の最有力候補だった。本図も蔦屋が推進した寛政期美人画の流れのなかで生み出された代表作の一つであり、吉原文化と浮世絵出版文化の成熟を示す貴重な作品です。More - 「梅樹下の馬」(ばいじゅかのうま) 2026年5月25日
画工 北尾重政版元 不明刊行年 不明 私が個人的にも好む清々しい錦絵です。満開の梅が咲き乱れる初春の水辺で、毛色の異なる3頭の馬がのどかに戯れる様子を描いた牧歌的な作品です。梅の香り、爽やか水風を感じさせる配色が素晴らしい。 見どころ:馬の毛並みやふくらみなどが、「空摺(からずり)」という凹凸をつける技法によって立体的に表現されています。空摺とは、絵具を使用せずに摺師の手作業で凹模様(エンボス加工)を和紙に付ける手法。動物の毛、鳥の羽、草花、雪、着物の柄など様々な要素の表現に用いられてきました。鈴木春信や喜多川歌麿も盛んに用いたと言われています。北尾重政は空摺の独特の技法を活かし、馬の存在感をより強調したのです。 当店蔵書はアダチ版画の復刻版です。More - 夏の風物詩を灯籠流しの起源とは?謎のゆりかもめの灯籠ながしが隅田川で人気に!有名団子やの入銀がきっかけ? 2026年5月21日
隅田川灯篭流し涼の真景版元 長谷川?画工 歌川国貞三世浮世絵カフェの蔵書 三社祭りが5月におわって浅草周辺では毎週のように夏イベントが実施されます。植木市、ほおずき市、隅田川の花火大会、灯篭流しへと。。。 本作品である「隅田川灯籠流し涼の真景」は明治11年に3代歌川国政によって描かれました。 現在ひろく知られる「隅田川とうろう流し」は、昭和21年(1946年)に終戦後の慰霊と浅草復興祭の一環として最初に行われました。関東大震災や東京大空襲など、隅田川沿岸で犠牲となった多くの方々の霊を弔い、平和を祈る法要として開始されました。現在では浅草隅田の夏三風物詩となっています。 国貞が描いたこちらの浮世絵は珍しい作品です。 ちりめん加工されている。(ぼろいだけという説もありますがちりめん絵ということで仕入れてますが・・・)ちりめんとは和紙で作られた浮世絵を木槌でたたいて加工してしわしわな手触りをたのしむ本や浮世絵です。 江戸後期から明治11年までに実際に催した灯篭流しの風景と推測しますが、灯篭が「ゆりかもめ」?しかも大量で異様な光景です。 これまで国書など調べていますが所以がわからなかった作品です。いつからゆりかもめの灯籠流しがはじまったのか?なぜ途絶えて誰もしらないのか?時期と理由をふくめて謎が多い画なのです。なお、江戸時代以前からゆりかもめは「都鳥」とも呼ばれていました。現在は東京都民の鳥としてなじみ深い鳥です。 絵の見どころ。 本作品の解説は探したが見当たらずですが、数点わかる範囲でご案内します。 ゆりかもめの灯籠が木船に張り子で作られてます。画だからこそ本物か?と見間違うレベルで再現されている。すごい!明治11年前後にはゆりかもめで灯ろう流しする慣習があったのかも? ゆりかもめを釣り上げている竿がある(真ん中の絵) つりかもめを釣り竿で釣っていた?もしくはリリースしていたと思われます。さらに遠目には巨大ゆりかもめも認められます。 屋形船には役者や柳橋の芸者が便乗していると思われます。 背景には筑波山まで見通せる風光明媚な場所(森真崎周辺;現在の白髭橋周辺だと推測します) 時期は川開き以降で5月28日以降の3か月以内だと思われます。 大川(隅田川)両国の川開きは旧暦5月28日の川開きから川じまいの8月28日まで、両国橋のたもとの広小路や川端に芝居小屋や露店、屋台の夜店の出店が期間限定で許可されました。船宿や料理茶屋が客をもてなす納涼船も許可されました。八代将軍・徳川吉宗の時代、享保18(1733)年の川開きに初めて花火が打ち上げられ、これが現在の隅田川花火大会の起源とされています。許可された3カ月の納涼期間中の灯籠流しは実施されたと思われます。 ■灯籠流しは言問団子の広告が起源か? 言問団子のはじまりは、明治元年(1869)「植佐」と呼ばれた植木職人・外山佐吉が、隅田川の堤に茶店を開き、団子を売り始めたのが始まり。商品名の由来は在原業平が詠んだ『古今和歌集』に、都鳥に“言問う”という語があった。その古歌にちなみ、団子に『言問団子』としたそうだ。 「名にしおはば 言問はん都鳥 我が思ふ人は ありやなしやと」 ここでゆりかもめ=都鳥ということがヒントになりました。実は、この浮世絵は言問団子の広告が関係しています。すぐ近くの「長命寺の桜もち」が看板娘効果で大繁盛していたのに対し、団子の売れ行きは芳しくなかった。そこで言問団子のネーミングとセットで和歌をつかった看板プロモーションを実行したという。墨堤(隅田川沿いの堤防に言問団子は所在する)は桜の時期が終わると夏秋冬は客が減ってしまう。主の植佐は牛島弘福寺の盆の燈籠流しを復活させることを思いつく。明治11年(1878)、大警視・川路利良の許可を得て、7月1日より1か月間、隅田川に都鳥の形をした燈籠を流したという。新聞各紙がこれを報じ、浮世絵にも描かれたことで、店の評判はさらに高まったようだ。本作品に明治11年8月5日刊と記載があるので最初の言問団子のイベントを何かしらの縁で国貞が描いたのだと思われます。古書に墨水流燈会之記(ぼくすいりゅうとうえのき)にはゆりかもめ灯籠の詳細絵図が記載されている。本灯籠流しは人気を博して7年も続いて、いったん休憩したが2代目二代目・外山新七がすぐに復活させたそうだ。なお、墨水流燈会之記の奥付をみたところ本書は新七が刊行した書物である。団子販売だけではなく書物まで編纂し刊行するとは優秀なアイデアマンだったのであろう。これらの背景を整理する限り本作品は言問団子の入銀(広告)ものだった可能性もある。 墨水流燈会之記 明治20年刊 版元 新七(言問団子二代目) 【画工紹介】 梅堂国政 バイドウ クニマサ(四代国政→明治22年歌川国貞三代を襲名) 江戸日本橋に生まれる。本名は竹内栄久。幼名は期太郎。四代歌川国政。15歳で初代歌川国貞門下に学びはじめたが、3年後に師匠がなくなった。その後は二代国貞に学んだ。1889(明治22)年に三代香蝶楼国貞を襲名。一寿斎、香蝶桜とも号し、国貞襲名以降は豊斎、芳斎などと称した。南総里見八犬伝、桃太郎鬼ヶ島でん、赤穂義士村松三太夫伝など表紙と挿絵を多数描いた。また役者絵や明治の開化絵として蒸気機関車を多数のこした。More - 当世美人色競べ・山下花(とうせいびじんいろくらべ・やましたのはな) 2026年5月14日
• 画工;北尾政演 • 版元 不明• 制作年 天明期? 当世風(最新)のファッション誌的な位置づけの美人画シリーズです。 江戸で当時に流行していた髪型や華麗な小袖模様の着物。 仕草の粋さなど江戸女性の流行美が描かれています。 単なる肖像ではなく、“江戸の流行そのもの”を描いた作品といえます。 北尾政演(山東京伝)の傑作といえる「当世美人色競べ・山下花」揃いもの(シリーズ)美人画です。当店で展示しているのは復刻版です。 本作品は描かれた時期と版元ははっきり分かっていません。蔦屋重三郎・西村屋与八・鶴屋喜右衛門などの可能性がありますが、おそらくは蔦屋ではないと思われます。 多色摺りの豪華な錦絵になっており構図・描線などから画工、政演のポテンシャルが発揮された優れた作品と言われます。「当世美人色競べ」はのちに刊行される名作の「吉原傾城 新美人合自筆鏡」にはない上品な雰囲気。描線が力強いのも特徴です。個人的には清長風?とも感じる色彩感覚です。 モデルになった女性達は、台東区上野、山下地区の住人で「けころ」という私娼だったという説があります。「けころ」とは蹴転ばし(けころばし)が略された表現です。女郎と手軽に遊ぶことを「転ぶ」と揶揄したという説もあります。 当時の江戸では政演は比類するものはない、間違いなくトップ作家でありアーティストでした。青楼を知り尽くした本当の通人だった政演は、大店の花魁から下級河岸の女郎まですべての女性を慈しみ、艶、美を見出していたのです。低い身分の「けころ」が軽視されていた面もあったようですが、若い女性らしく流行に敏感な一面もあることを可憐な仕草と当時の流行のファッションで「けころ」の3人を描いています。More
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