浮世絵今昔~コラム

  • 雛形若菜初模様』作品解説 2026年9月7日雛形若菜初模様』作品解説
    1.『雛形若菜初模様』シリーズ概要 ― 吉原の遊女と最新ファッションを描いた華麗なる美人画 作品名:雛形若菜初模様(ひながたわかなのはつもよう)絵師:礒田湖龍斎(いそだ こりゅうさい) 鳥居清長版元:西村屋与八(永寿堂)・蔦屋重三郎(耕書堂)〔シリーズ初期〕刊行年:安永4年(1775)頃~形式:大判錦絵・揃物 『雛形若菜初模様』は、江戸・新吉原の実在する遊女たちを、華麗な衣裳とともに描いた礒田湖龍斎の代表的な美人画シリーズである。安永4年(1775)頃から刊行され、絵師は鳥居清長に引き継がれて100図を超える大規模な揃物へと発展した。湖龍斎と鳥居清長の代表作であると同時に、江戸時代の美人画史を考えるうえでも重要な作品である。 題名にある「雛形」とは、衣裳や染織、模様などの見本を意味する。「初模様」は新年に向けて新調された晴れ着の意匠を指し、本作では吉原の人気遊女たちが、趣向を凝らした最新の衣裳をまとって登場する。そのため本シリーズは、美人を鑑賞する浮世絵であると同時に、江戸の人々に最新の流行を伝える、いわば「江戸時代のファッションカタログ」としての性格を持っていた。 画中には遊女の姿だけでなく、所属する妓楼の名や遊女名が記されている。鑑賞者は単なる理想化された美人を見るのではなく、「吉原のどの店の、誰であるか」を知りながら作品を楽しむことができた。現在の感覚でいえば、人気モデルや芸能人が最新ファッションを披露する雑誌や広告にも似ている。吉原の遊女は美貌だけでなく、衣裳、髪形、立ち居振る舞い、教養などを含めて江戸の流行を先導する存在でもあり、その華やかな姿は吉原を訪れない人々にとっても憧れの対象であった。 湖龍斎は、衣裳の模様や帯の意匠を細部まで丹念に描きながら、それぞれの遊女の姿態や雰囲気にも変化を持たせた。錦絵ならではの鮮やかな多色摺によって、豪華な打掛や帯、季節を象徴する文様が画面いっぱいに展開される。美人そのものと同じほど衣裳が重要な主役となっていることが、このシリーズの大きな特徴である。 出版史の面で特に注目されるのが、シリーズ初期に西村屋与八と蔦屋重三郎が共同版元として名を連ねていることである。西村屋与八は江戸を代表する有力な地本問屋であった。一方、この時期の蔦屋重三郎は、吉原を活動の基盤として出版界へ進出し始めた若い版元である。初期の約12図に両者の版元印が確認され、その後は西村屋が単独で出版を継続したと考えられている。 この共同出版は、蔦重の出版人としての成長を考えるうえで興味深い。蔦重は吉原に生まれ育ち、遊女や妓楼、年中行事、流行など吉原内部の情報に精通していた。安永3年(1774)には吉原細見『細見嗚呼御江戸』の出版に関わり、さらに吉原の遊女を花に見立てた『一目千本』など、吉原文化そのものを魅力的な出版物へ変えていった。『雛形若菜初模様』もまた、その延長線上に位置する作品といえる。 つまり本作では、西村屋の出版力、湖龍斎の描写力、そして蔦重が熟知していた吉原の情報と流行が結びついたのである。実在の人気遊女、最新の衣裳、華麗な錦絵という三つの要素を組み合わせることで、吉原そのものが一つの魅力的な「ブランド」として江戸市中へ発信された。 シリーズは好評を博し、蔦重が共同出版から離れた後も西村屋によって刊行が続けられた。やがて湖龍斎から鳥居清長へ引き継がれて雛形若菜の表現はさらに発展していく。そして蔦重自身も後年、喜多川歌麿を起用し、吉原の遊女や市井の女性をスターとして世に送り出すことになる。 『雛形若菜初模様』は、華麗な遊女美人画であるだけではない。吉原という盛り場が生み出す「美人」「衣裳」「流行」「情報」を出版商品へと変えた作品であり、江戸のファッション文化と浮世絵出版が密接に結びついていたことを今日に伝えている。 そして蔦屋重三郎の出版史から見れば、本作は老舗版元・西村屋与八との共同出版を通じて、吉原を舞台とした出版から本格的な錦絵出版へ活動を広げていく時期を示す重要な作品である。後に歌麿とともに美人画の新時代を築く蔦重。その原点の一つを、『雛形若菜初模様』に見ることができる。 2.『雛形若菜初模様 越前屋内 もろこし』  「もろこし」  Museum of Fine Arts 「白つゆ」ボストン美術館「瀬川」 国立文化財機構所蔵品統合検索システム 絵師:礒田湖龍斎 版元:蔦屋重三郎・西村屋与八 刊行:安永4~5年(1775~76)頃 形式:大判錦絵 展示作品:江戸期のオリジナル版木を利用した後摺と思われる(耕書堂印のみで西村屋印が削除されている。)University of Wisconsin-Madisonと同じ作品 本図に描かれている「もろこし」は、新吉原・江戸町一丁目の妓楼「越前屋」に所属した遊女である。湖龍斎は、華麗な衣裳をまとったもろこしが、小さな男児を頭上に高く抱き上げ、その傍らに禿が立つ姿を描いている。高位の遊女を静的な美女として見せるのではなく、子供と戯れる一瞬を捉えた、親しみと動きに満ちた一図である。同時に、豪華な着物や帯の意匠は「雛形=衣裳見本」という本シリーズの特徴をよく示している。 興味深いのは、「もろこし」という名前である。約18年後の寛政期になると、同じ越前屋に「唐土(もろこし)」という名妓が登場する。鳥文斎栄之は『青楼美人六花仙』で唐土を百合に見立て、短冊を前に歌を考える教養豊かな女性として描いた。さらに寛政6年(1794)、喜多川歌麿も『当時全盛美人揃』で「越前屋内唐土」を描き、当代を代表する美人として紹介している。 安永期の「もろこし」と寛政期の「唐土」が同一人物とは考えにくく、越前屋で「もろこし」という遊女名が受け継がれていた可能性が考えられる。確証にはなお史料調査を要するものの、もし名跡として継承されたのであれば、それは「もろこし」が越前屋を象徴する特別な名前であったことを示している。 そして本図は、若き蔦屋重三郎が西村屋与八と共同で刊行したシリーズ初期の作品でもある。湖龍斎が描いた安永期の「もろこし」から、約二十年後に栄之や歌麿が描く「唐土」へ――。一人の遊女名を追うことで、吉原の歴史とともに、湖龍斎から栄之・歌麿へと移り変わる江戸美人画の系譜まで見えてくる。さらに展示作品については、珍しい細工がされている。本来は西村屋と耕書堂の押印の2つがあるはずが、西村屋印だけが削除されている。本作は江戸後期の後摺と思われるが、販売した版元が西村屋だけを外した理由は不明だ。後摺のばあいは、版木を保有している、版元印に書き換えることが普通である。推測ではあるが、西村屋印を落として蔦屋重三郎の2代目か3代目かが後摺したと考えるのが自然だと思われる。初代が西村屋に出し抜かれた経緯を考えると、この後摺をつかって西村屋へリベンジしたことになる。このような物語を考えることも浮世絵の愉しみ方のひとつ。人気作品については、版木が売却されたり、再刻されてながく使われていく。版木を著作権管理のルーツとして考えると、版木の再利用の過程や流通を考えさせられる非常に興味深い一枚である。 3.『雛形若菜の初模様 若那屋内 しら露 花の・なみし』 作品名:雛形若菜の初模様 若那屋内 しら露 花の・なみし絵師:礒田湖龍斎版元:西村屋与八刊行:安永7年~天明元年(1778~81)頃形式:大判錦絵展示作品:江戸期の後摺と思われる 本図は、吉原の大見世「若那屋」の遊女・しら露(白露)と、二人の禿「花の」「なみし」を描いた一枚である。若那屋は吉原を代表する有力な妓楼の一つで、後世の『吉原細見』などにもその名が見え、主人は「若那屋八左衛門」の名を代々受け継いだとされる。画面では、華やかな衣裳をまとったしら露を中心に禿を従わせ、遊女個人の美貌だけでなく、大見世に所属する高位の遊女が備えた格式と豪奢な装いを印象づけている。 しら露は湖龍斎の別の版本にも登場する。安永6年(1777)の『吾妻錦松の位』には、若那屋の「しら露」が禿を伴って記されており、本図と近い時期に実在した若那屋の有力遊女であったことがうかがえる。本図の「花の」「なみし」も、しら露に付き従う禿(背丈から思慮すると新造の可能性あり)の名であり、花魁だけでなく禿まで実名で紹介する点に、『雛形若菜初模様』が吉原の最新情報を伝えるメディアでもあったことがよく表れている。 さらに興味深いのは、「白露」の名がその後も若那屋を代表する名妓として現れることである。寛政6~7年(1794~95)頃には、喜多川歌麿が『青楼七小町』で「若那屋内白露」を描き、寛政6年頃の『名取酒六家選』男山のお酒の広告にも白露が登場する。安永期のしら露と寛政期の白露が同一人物か、あるいは若那屋で受け継がれた遊女名なのかは断定できない。しかし、約二十年にわたり「白露」の名が若那屋と結びついて浮世絵に登場する事実は注目される。湖龍斎から歌麿へ――本図は、吉原の名妓と美人画の系譜をつなぐ重要な一枚といえる。 4.『雛形若菜の初模様 松葉屋内 瀬川』 作品名:雛形若菜の初模様 松葉屋内 瀬川 さゝの・竹の絵師:鳥居清長版元:西村屋与八刊行:天明期(1780年代前半)形式:大判錦絵展示作品:江戸期の後摺と思われる。 本図は、吉原を代表する妓楼の一つ「松葉屋」の名妓・五代目瀬川と、二人の禿「さゝの」「竹の」を描いた作品である。「瀬川」は松葉屋を代表する遊女が代々襲名した名跡であり、吉原でも特に名高い遊女の名であった。 画面でまず目を引くのは、中央に立つ瀬川の堂々とした姿である。清長は女性の身体をすらりと長く描くことで知られ、本図でも湖龍斎時代の美人画とは異なる、伸びやかで洗練された女性像をつくり出している。あらたに絵師を鳥居清長に変えて雛形若菜シリーズのイメージを刷新した記念の作品でもある。その傍らに二人の禿を配することで、瀬川の高い格式と華やかな存在感がいっそう際立っている。 注目したいのは三人の衣裳である。瀬川と禿には共通する意匠が用いられ、主従が一体となって装う華麗さそのものが、松葉屋と瀬川の格式を示している。「雛形=衣裳見本」というシリーズの性格が、非常によく表れた一枚である。 このシリーズは礒田湖龍斎が長く手掛けたが、後期には鳥居清長が作画を引き継いだ。清長は遊女を単なる衣裳のモデルとしてではなく、長身で健康的な身体を持つ女性として表現し、美人画に新しい時代をもたらした。本図は、湖龍斎から清長へと美人画の主役が移っていく時代を象徴する作品としても重要である。
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  • 江戸花京橋名取 山東京伝像 (さんとうきょうでん) 2026年9月5日江戸花京橋名取 山東京伝像 (さんとうきょうでん)
    細田栄里( 鳥橋斎栄里)画 刊行年 1795年(寛政7年)頃 本肖像画は35歳前後の山東京伝 (1761-1816)と云われている。背景に黒雲母摺が奢られる豪華な作品でスター作家として相応しい。この肖像は現在でいえばブロマイド。京伝の出生は深川木場。実家は質屋を営み京橋で育った。本名は岩瀬醒(いわせさむる)。通称を伝蔵とよばれる。山東京伝という名前は、“江戸城の紅葉山の東、京屋(京橋)の伝蔵”に由来する。京伝は吉原きっての通人として右に出るものはなく、若い頃から三味、音曲を多数習い、さらに北尾重政から絵を学んだ。北尾政美(鍬形蕙斎)や窪俊満は同門である。生涯にわたって2度の結婚をしたが、妻になったのはふたりとも吉原の遊女だった。大変な愛妻家としても知られている。 京伝にとって煙管(きせる)はアイコンでもある。彼が自らデザインした煙草入れ販売していたこと象徴する絵でもある。着物の紋は巴山人紋で京伝は、幼い頃に父親から巴山人の印鑑を貰い生涯大切にした。京伝の多くの作品にこの巴山人の落款がある。同じく父に数え年九歳で寺子屋に入る際に貰った文机(京伝机)も大切にしていました。文机をすり減るほどに使い切ったことは知られた逸話です。この机について京伝が「耳もそこね あし(足)もくしけて もろともに 世にふる机 なれも老いたり」と歌に詠んでます。京伝は人の思いを永く大切にできる人情深い人柄だったようです。
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  • 今様三體志 2026年8月31日今様三體志
    「真行草」3体で男女の関係性の変化を表現国貞が描く巧妙な構成が光る艶本の傑作 画工:不器用亦平 (ぶきようまたへい) 歌川国貞(豊国三代)著:百垣千研(ももがきせんけん)刊行年:文政12年(1829年) 浮世絵カフェ蔦重では、8月29日から歌川国貞の『今様三体志』の豆本制作ワークショップを開始しました。あわせて、オリジナルの本も展示中です。これまで春画・艶本は展示してなかったのですが、人気があるので適宜イベントなど開催したいと思います。その第一回目が三体志です。 歌川国貞の『今様三体志(いまようさんたいし)』は、文政12年(1829年)に刊行された江戸時代の「艶本(えんぽん)」と呼ばれる春画(しゅんが)の絵本・和本です。著者は百垣千研(ももがきせんけん)、作画は歌川国貞が「不器用亦平(ぶきようまたへい)」という春画用の別名義(偽名)を使って描いています。 主な内容と特徴構成と形式全3冊(上・中・下巻の三冊)の和本(半紙判)形式で構成されています。浮世絵カフェの豆本「三体志」はそのうちの上巻です。見開きの彩色木版画イラストが多数収録されており、上巻には見開き画面10図(うち春画が4図、その他は美人図など)が含まれる構成になっています。タイトルの由来と趣向タイトルにある「三体志」は、中国の有名な詩集『三体詩』のパロディー(もじり)です。 江戸時代の春画や艶本では、古典や有名な文学作品のタイトルを洒落(しゃれ)や現代風(今様)にアレンジして、男女の情愛や性愛を描くのが定番の仕掛けでした。描かれている世界は国貞の得意とする江戸後期の粋な美人画や男女のリアルな風俗・情愛が、緻密な多色摺り(錦絵)で美しく描かれています。当時の人々の衣装、髪型、部屋の調度品なども非常に細かく描写されているため、当時の風俗を知る歴史的資料としても評価されています。当時は幕府の取り締まり(風紀規制)があったため、作者や絵師は本名を伏せ、版元(出版社)も名前を隠して問屋ルートではなく、いわば地下ルートで流通させていました。 【構成の解説】序文から読み進めると、千研と国貞の高度な教養と3重の巧みな文章校正に魅せられていくでしょう。そこには「三體」とかけて「真・行・草」で描かれた段階的な男女の関係が見えてきます。 本作の題名「三體」の意味を解く鍵となるのが、百垣千研による序文である。まず中国の『三體詩』を引き、そこから書道の「真書・行書・草書」という三体へ話を転じる。本作でいう真・行・草は単なる書体の分類ではありません。美人画や役者絵で衣装表現に卓越した国貞にとって、「真・行・草」を装いの変化によって視覚化するという発想は、その画技を生かす格好の趣向でした。「真」は社会に向けた整った表向きの姿、「行」はその行儀や形式が崩れ始めた姿、「草」は職業的・社会的な関係から離れ、私的な男女関係が前面に現れる姿である。書道と同じく真書から草書にむかって乱れるようなイメージです。 第一冊での構造は「吉原」と「江戸芸者」で異なる場面を用いながら共通して展開されています。『今様三體志』は、単なる性愛図の集成ではない。江戸人特有の言葉遊びと国貞の華麗な衣装表現を結びつけ、社会的な「装い」から私的な「身体」へと移行していく過程そのものを楽しませる、知的な仕掛けを備えた艶本なのです。 参考【三体詩(さんたいし)】 南宋の周弼の編集した唐代の詩集です。 七言絶句、七言律詩、五言律詩の三つの形式(三体)に限り、 唐の167人の作、494首を収めています。 巧妙な仕掛けについてすこし解説「真」は麻裃(あさかみしも)や打掛を着た表向きの正式な姿、「行」は行儀を少し崩し、襦袢、小紋、羽織などを着流した姿として説明される。そして「草」へ進むにつれて、男女の装いや振る舞いはいっそう私的なものとなっていく。すなわち、書道において真書から行書、草書へ文字の形が崩れていくように、人間も正式な衣装と行儀から次第に解放され、男女の私的な世界へ入っていくのである。さらに序文後半では「體」という文字自体が言葉遊びの対象となる。「人は一體、萬物の靈」としたうえで、男と女を「二體」と捉え、そこから三體、四體、五體などへ意味を展開していく。したがって『今様三體志』の「三體」には、中国文学の『三體詩』、書道の「真・行・草」、そして男女の「身体」という少なくとも三つの意味が重ねられている。文学から書へ、書から衣装へ、衣装から身体へ、そして男女の性愛へ――。「體」という一字の意味を次々と転じていくところに、この序文の巧妙な趣向がある。 また、国貞が描く麻裃、打掛、襦袢、小紋、羽織、着流しなどの衣装を具体的に列挙している点にも注目したい。美人画や役者絵で衣装表現に卓越した国貞にとって、「真・行・草」を装いの変化によって視覚化するという発想は、その画技を生かす格好の趣向であった。『今様三體志』は、単なる性愛図の集成ではない。江戸人特有の言葉遊びと国貞の華麗な衣装表現を結びつけ、社会的な「装い」から私的な「身体」へと移行していく過程そのものを楽しませる、知的な仕掛けを備えた艶本なのである。 第一冊概要 『今様三體志』第一冊は、大きく「序文」「吉原 真・行・草」「江戸藝者 真・行・草」の二系列によって構成される。 作品名の「三體」は書道の真・行・草になぞらえた趣向である。しかし第一冊全体を通読すると、単に書体名を借りただけではなく、人物の衣装、行儀、職業上の立場、場所、言葉遣い、男女の距離そのものを、「真」から「行」、さらに「草」へ段階的に崩していくことが基本構造と考えられる。 「真」は社会に向けた整った姿、「行」はその行儀や形式が崩れ始めた姿、「草」は職業的・社会的な関係から離れ、私的な男女関係が前面に現れる姿である。第一冊での構造は「吉原」と「江戸芸者」で異なる場面を用いながら共通して展開される。 序末には「己丑はつ春 東都の淫史 百垣千研戯題」とあり、文政十二年己丑の新春に序が記されたことを示している。 凡例 原文翻刻:原画像から確認できる文字を起こしたもの。 校訂本文:変体仮名・異体字を通常字体に改め、句読点を補ったもの。 〔 〕:推読。 □:判読未確定。 現代語訳:確定本文を中心とした訳。未読部分を想像で補わない。 作品解釈:原文・挿絵・第一冊全体の構成から導く考察。翻刻上の事実とは区別する。  序文 1. 現代語訳  中国の『三體詩』になぞらえ、本書では書道の真・行・草を、当世の男女の姿に置き換えて見せようというのである。「真」は正式な表向きの姿。「行」はその行儀を少し崩した姿。そして「草」では社会的な形式がさらに崩れ、生身の男女の世界へ近づいていく。後半では「體」を「書体」だけでなく「身体」の意味にも掛け、一体、二体、三体……という艶笑的な言葉遊びへ展開する。 2.語注 三體詩:中国詩の分類に由来する名称。 真・行・草:真書・行書・草書。文字の形が次第に崩れる。 麻上下:麻裃。正式な男性衣装。 打掛:女性の正式・華麗な衣装。 行義:「行儀」と「行」を掛けたもの。 體:「書体」と「身体」を掛ける本書最大の仕掛け。 【第一図】 仲ノ町の桜並木 満開の桜に包まれた新吉原の春景を描く見開き図。画面中央を桜が埋め尽くし、その向こうには妓楼と思われる建物が斜めに延びる。二階の欄干からは華やかな装いの女性たちが身を乗り出すように往来を眺め、画面下には大きな傘を差した人々が行き交う。 構図としては、上=妓楼の二階から往来を見る人々中央=満開の桜下=桜の下を行き交う人々 という三層構造になっています。面白いのは、主役であるはずの人物をあえて桜と傘で隠していることです。 江戸時代の新吉原では、春になると桜を植えて仲之町を華やかに飾り、遊廓全体を花見の空間として演出した。したがって本図の桜は単なる自然景観ではなく、吉原が季節ごとに作り出した「非日常」の象徴でもある。 国貞は人物を画面の中心に置かず、満開の桜と大きな傘によってその姿を部分的に隠している。二階から往来を見る女性、桜を見ながら歩く人々、そして彼らを見る鑑賞者という複数の視線が交錯し、吉原が「見る」と同時に「見られる」社交と遊興の場であったことを印象づける。 特に画面を覆う桜、妓楼の建築、華麗な衣装、大きな傘を組み合わせた構図は、吉原そのものを一つの舞台として見せる効果を生んでいる。ここで描かれているのは単なる花見ではなく、季節、装い、人間、建築が一体となって作り出す「吉原の春」なのである。 【第二図】花曇り朧月夜の廓内 吉原の桜を描いた前図から場面を転じ、夜中の妓楼内部と思われる空間に二人の女性を描く。左の女性は青い着物姿で身体を前へ傾け、右の女性に顔を寄せる。対する女性は淡色の着物に青い襟をのぞかせ、比較的整った姿勢で相手の言葉を聞いているように見える。 背後には松や大きな葉をつけた植物、庭園の装飾物が配され、上部には大きな赤提灯が吊られている。左下には花や食物、器物などを組み合わせた飾りも見え、吉原の華やかな遊興空間が細部まで表現されている。 前図では満開の桜と往来、妓楼の建築が大きく描かれ、人物はその中の小さな存在であった。それに対して本図では視点が妓楼の内側へ移り、女性たちの衣装、姿勢、身振りが鑑賞の中心となる。 吉原の外景を描いた前図から、妓楼内部の女性たちへ――。この画面の移行は、華やかな吉原の「表」から、そこで暮らす女性たちのより身近な世界へ鑑賞者を導く役割を果たしているように見える。 【第3図】 雪中の相合傘  男性が番傘を差し、その傘の下へ女性が身体を寄せています。二人の肩はほとんど重なり、女性は男性の胸元に寄り添うような姿勢です。男性は青系の着物に羽織、女性も青を基調とする防寒的な装いで、二人とも雪の中を歩いています。ここで非常に重要なのが、「一本の傘」です。単に雪を避ける道具ではなく、男女二人だけの小さな空間を作っています。後世いうところの「相合傘」に近い視覚表現であり、二人の親密さを説明なしで伝えています。 【第4図】 遊女・禿・客の座敷 豪華な座敷に、高位の遊女と思われる女性、禿、男性客の三人を描く。遊女は多数の簪や笄を挿した華麗な髪型に、赤と青緑を基調とする豪華な衣装をまとい、その前には紫の着物姿の禿が控える。右側には青い着物の男性客が座り、三者によって吉原の座敷における人間関係が表されている。 背景には尾羽を広げた孔雀と花木が大きく描かれ、室内全体が華麗な装飾空間として構成されている。とりわけ、豪華な羽を持つ孔雀と、簪や衣装で華やかに装った遊女との視覚的な対応は印象的である。遊女自身が、吉原において「見られる華」であったことを象徴するような構成といえよう。 男性の手前には開かれた冊子が置かれている。内容までは特定できないものの、酒宴だけではなく、読書や文芸などの文化的要素を座敷の小道具として描いている点も興味深い。 『今様三體志』の序文では、書の「真・行・草」を男女の衣装や振る舞いになぞらえ、「真」を表向きの整った姿として説明している。本図の遊女は髪を正式に結い、多数の髪飾りを挿し、豪華な衣装をまとって禿を従えており、まさに客に対して見せる「表向き」の姿である。この意味で、本図は序文にいう「真」の世界を考えるうえで重要な一図とみられる。 華麗な衣装、孔雀、花、座敷の調度――国貞はこれらを画面いっぱいに重ねることによって、吉原の格式と華美を視覚化している。 【吉原・真】 1.現代語訳 宴が終わり、夜も深くなった吉原。華やかな座敷の裏では、遊女が馴染み客に「昨夜はどうして帰ってしまったの」と私的な感情をのぞかせる。 2.絵の解説 対応する図では、華麗に装った遊女、禿、男性客が座敷にいる。遊女は多数の簪を挿し、豪華な衣装をまとっている。背景には孔雀や花などの華麗な装飾があり、吉原の格式ある「表」を表す。 3.語注 杯盤狼藉:宴の後、杯・皿などが散乱した状態。 女郎:ここでは吉原の遊女。 禿:高位の遊女に付き従う少女。 4.「真」の位置づけ 吉原における「真」は、遊女として客前に見せる正式な姿である。衣装、髪型、禿、座敷、客との関係が、まだ社会的な形式を保っている。  【吉原・行】 1.現代語訳 遊女と馴染み客が、遠慮のない口調で互いをからかったり言い返したりする。接客上の格式より、男女としての親しさが前面に現れる。 2.絵の解説 男女二人だけの寝所である。「真」に存在した禿など第三者は姿を消し、男女の身体的距離も近くなる。女性の衣服は崩れているが、髪にはまだ多数の簪が残り、遊女としての形式を完全には失っていない。 3.「行」の位置づけ 序文の「行は行義をすこし崩して」を最も素直に示す。「真」を完全に捨てず、遊女としての形を残しながら少し崩す状態である。  【吉原・草】 1. 現代語訳 客と遊女という社会的な関係よりも、一組の男女としての私的な会話と身体関係が前面に出る。 2.絵の解説 女性は煙管を持ち、男性と非常に親密な状態にある。周囲には茶器、料理、皿、箸などが置かれている。単なる性愛図ではなく、「食べる・飲む・煙草を吸う・男女として過ごす」という私生活そのものが描かれている。 3.「草」の位置づけ 草:草書のように、元の社会的な形を大きく崩した状態。 「遊女と客」という職業上の関係が後退し、「女と男」という私的な関係が中心になる。 吉原・三體総括 項目 真 行 草 場所 表座敷 寝所 私的生活空間 女性 正装した遊女 遊女の形を残す 私的な女性 第三者 禿あり なし なし 男女関係 遊女と客 馴染み 男女一対一 会話 表向きを残す くだける 身体・性愛へ 基本原理 整える 少し崩す 大きく崩す 江戸藝者・真 1. 現代語訳 江戸の芸者が座敷へ上がり、三味線や音曲によって客を楽しませる。これが芸者にとっての「表向き」、すなわち「真」である。 2.絵の解説 三味線を奏でる芸者、酒盃を持つ男性客、銚子を持つもう一人の女性が描かれる。手前には魚料理、猪口、皿、箸なども描かれる。吉原の「真」が華麗な正装を中心としたのに対し、江戸芸者の「真」を象徴するのは「三味線=芸」である。 3.語注 深川:最大規模の岡場所が深川にあった。非公認の歓楽街。江戸芸者文化の重要な地域でもある。 音曲:三味線などによる音楽・芸能。 三味線:芸者の職業的な「表の顔」を象徴する小道具。 4.「真」の位置づけ 芸者が芸者として客前で果たす職業的役割が「真」である。  江戸藝者・行 1.現代語訳 芸者たちの表向きの座敷から離れ、芸者仲間の人間関係や感情が露出していく。「姉さん」と呼ばれる先輩格の女性を含むやり取りがあり、その先に湯屋での騒動が展開するものと考えられる。 2.絵の解説――湯屋の喧嘩 女性たちの喧嘩・揉み合いと読む方が有力である。女性たちは相手をつかむ、組み付く、押さえる、引き離す、桶を振り上げるといった動作をする。全員が同じ側の喧嘩当事者というより、喧嘩する女性、止める女性、騒ぎに巻き込まれる女性という構図の可能性がある。 3.喧嘩の原因について 絵から確認できるのは、「江戸藝者・行」であること、「姉さん」という呼称があること、湯屋で複数の女性が揉み合っていることである。作品構成からは、芸者同士の客への贔屓・親密さ、あるいは馴染みをめぐる競争が背景にある可能性がある。 4.「行」の位置づけ 「真」では芸者たちは三味線を奏で、客前で行儀よく振る舞っていた。「行」では湯屋で行儀が崩れ、感情を露わにして喧嘩する。すなわち「行書として形を崩す」と「行儀を崩す」という二重の洒落になっている可能性が高い。  江戸藝者・草 1.現代語訳 芸者仲間や座敷の社会的関係は消え、一人の芸者と一人の男性だけの私的な関係になる。 2.絵の解説 画面には一組の男女だけがいる。着物は完全に消えるのではなく、身体の周囲で大きく崩れている。周囲には化粧道具、櫛、箱、脱ぎ置かれた衣類などがあり、芸者の客前の世界ではなく、女性の私室であることが強調される。 3.語注 草:草書。形を大幅に省略・連綿させる書体。この図では衣服・社会関係ともに「原形を残しながら大胆に崩す」ことと対応すると考えられる。 4.「草」の位置づけ 「真」で存在した芸者集団も、「行」で争った女性たちも消え、「一人の男+一人の女」だけが残る。 江戸藝者・三體総括 項目 真 行 草 場所 座敷 湯屋 私室 芸者の状態 職業的 感情的・日常的 私的 象徴 三味線 喧嘩・湯桶 男女一対一 男性客 いる 画面にはいない 一人いる 女性 複数 多数 一人 社会性 高い 崩れる 最も低い 「崩し」 形式を守る 行儀を崩す 社会的形式を大きく崩す 第一冊総論――「真・行・草」とは何を分類しているのか 第一冊を通読すると、重要な事実が見えてくる。三體が分類しているのは、裸身の程度ではない。江戸芸者「行」の湯屋では女性たちは裸であるが、「草」では男女に衣服が残っている。したがって「裸になるほど草」ではない。 分類されているのは、社会的な形式がどこまで崩れたかである。 真:社会的に整えた人物。遊女なら遊女として、芸者なら芸者として、職業・身分・行儀を保っている。 行:その形式を少し崩す。馴染みとの私的な会話、芸者仲間の感情・競争、喧嘩など、社会的な顔の裏側が現れる。 草:社会的な形式を大きく崩す。遊女・芸者・客という役割よりも、一人の女と一人の男という私的関係が中心になる。 すなわち「真=社会の顔」「行=日常の顔・感情」「草=私的な男女」という構造である。 書の三体を江戸の生活と男女関係へ置き換えたところに、『今様三體志』最大の趣向がある。 また絵には、三味線、煙管、酒器、料理、簪、着物、湯桶、化粧道具、夜具など、文政期の生活用品が細密に描かれる。本書は艶本であると同時に、当世の衣食住、遊興、職業、男女関係を視覚化した、優れた江戸風俗資料として読むことができる。 ※翻刻と現代語訳はできるかぎり正確に記載しています。ただしその正確性は一切保証できません。あくまでも趣味人の手習いレベルです。ご参考程度にお願いいたします。
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  • 【絵本東土産】黄表紙の叢書(そうしょ) 2026年8月31日【絵本東土産】黄表紙の叢書(そうしょ)
    江戸生まれの地本が上方・地方で大人気に 今回のテーマは江戸時代の叢書というビジネスモデルです。 書物は上方。地本は江戸。日本橋の版元の大半は上方の支店だった。書肆は上方が本場だったのだ。江戸の地本問屋の隆盛は恋川春町の黄表紙から快進撃。黄表紙・洒落本・滑稽本・狂歌絵本など草双紙が飛ぶように売れて江戸文学の黄金期を蔦屋重三郎たち地本問屋が地本の黄金期を創ったのだ。 寛政9年に初代蔦屋重三郎が亡くなった。その後に耕書堂の作品は勇助こと二代目蔦屋重三郎が受け継いだ。初代の食客・手代などとしてかかわってきた曲亭馬琴・十辺舎一九・山東京伝たちは引き続き二代目蔦屋重三郎と作品を作っていった。しかしながら、勇助には初代ほどのカリスマ性はなかったようで耕書堂出身の戯作者たちは引く手数多で他の書肆から作品を発行するようになっていった。  徐々に耕書堂に陰りが見えてきたこの時期に、上方の版元 伊勢治が地本人気に目を付けた。力が落ち始めている二代目蔦屋重三郎と巨匠の山東京伝と手を組んで過去の版木を再利用する絵本東土産を刊行した。叢書(本の合本集)として84冊の本を「絵本東土産」という統一した題箋(タイトル)に変更してシリーズ本として再販したのが本作です。「絵本東土産」は享和頑年夏に京都銭屋長兵衛、江戸伊勢屋治助、蔦屋重三郎二代目、大阪播磨屋五兵衛らが4書肆合版で発売した。山東京伝がリメイク編集しているとしているが11冊しか山東京伝作品はなくて、ほか版元の再利用が主体だったのが実際。初版では作画なども削除してリメイクしたものもあったようだが、実態はほとんど手をかけない後摺の販売だったようだ。  版木は版元の著作権管理する財産でした。版元は事業が傾くと版木自体をほかの版元へ販売して再販(後摺)することがありました。新たな名前を付けて再販するなど、また一部を編纂して再活用すること事例もあります。 当店の蔵書は、この絵本東土産で使用した蔦谷重三郎が作ったオリジナル版木を用いて後摺りされた作品です。明治期に版木を一括で買い取った版元が再び出版したものが当店の蔵書となります。それもあって、表紙が統一された素材になっていました。明治期の再販については「絵本東土産」という叢書名は削除され、各々の黄表紙本来のタイトルが付されました。  浮世絵カフェ蔦重の蔵書はこの東土産自体ではありません。東土産で使用したオリジナル版木を使用した後摺りになります。題箋も表紙もそろえられています。 浮世絵カフェの蔵書 4冊(後摺黄表紙) 山東京伝、曲亭馬琴作の黄表紙です。9月未明に展示予定。ぜひ見に来てください。 ①六冊掛徳用草紙②五大力三画訓読③売切申候切落咄④仮名手本胸之鏡 絵本東土産  上巻 表紙  出典 国書データベース
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  • 甘露梅(かんろばい) 2026年7月11日甘露梅(かんろばい)
    新吉原を代表する贈答菓子ご贔屓客に配られた通のあかし 甘露梅は、江戸時代の新吉原を代表する名物菓子で、青梅を赤紫蘇の葉で包み、砂糖漬けにした上品な保存菓子です。現在では小田原名物として求肥と餡を使った「甘露梅」が知られていますが、本来の甘露梅は新吉原で生まれた梅菓子でした。 甘露梅が作られ始めたのは十八世紀中頃で、最初に製法を考案したのは、新吉原の菓子商「松屋庄兵衛」と伝えられています。『吉原大全』(1768年)には「甘露梅は松屋庄兵衛手製しはじむ」と記され、さらに『郭中名物論』(1780年)では「吉原第一の名物」と紹介されるほど人気を集めました。水道尻にあった「山口屋半四郎」も同じく吉原名物として知られたようで蔦屋重三郎が刊行した「吉原細見 籬乃花 」 安永4年(1775) でも巻末の吉原名物の一覧で紹介されています。「松屋が初めて販売したようですが、実際には各郭で手製にてつくっていたのが先か?松屋が先か?判然としません。守貞漫稿では「桐折大さ長四寸約15cm  幅二寸八約10.5cm分  高二寸約8cm。 蓋けだし上げ底にて梅一層およそ二十四顆かを納む。柔核の小梅に一顆か毎に紫蘇葉に包み製す」と紹介されている。 新吉原の引手茶屋や妓楼でも甘露梅を手製していました。毎年五月頃、梅の実がまだ青いうちに収穫し、一粒ずつ丁寧に種を抜きます。その実を赤紫蘇の葉で包み、たっぷりの砂糖とともに甕へ漬け込みます。漬け込み期間は半年から一年半にも及び、さらに熟成させて翌年、あるいは二年後の正月に完成品として取り出しました。この長い熟成期間によって、梅の酸味がまろやかになり、紫蘇の香りと砂糖の甘味が一体となった深い風味が生まれました。妓楼では遊女たちも総出で仕込みを行ったと伝えられています。 その味わいは、現在の梅干しとは大きく異なります。口に入れると、まず砂糖のやさしい甘味が広がり、その後に青梅特有の爽やかな酸味と赤紫蘇の香りが追いかけてきます。果肉は柔らかく、蜜を含んだ上品な甘酸っぱさが特徴で、濃い茶や酒の席にもよく合いました。一部では山椒もつかって甘酸っぱさにぴりりと辛みも効かせたようです。保存性も高く、見た目も美しかったことから、高級な贈答品として珍重されました。 甘露梅は一般販売される菓子というより、正月に上客へ贈る特別な進物でした。新吉原では一年間世話になった大店の主人や豪商、大名、旗本などの常連客へ、妓楼や引手茶屋が自家製の甘露梅を贈る習慣がありました。そのため「吉原の正月といえば甘露梅」といわれるほど、格式ある贈答品となりました。 新吉原を舞台に活躍した山東京伝や、版元として吉原文化を広めた蔦屋重三郎の時代には、甘露梅はすでに吉原名物として広く知られていました。また、「甘露梅、女芸者の加役なり」という川柳が残されており、芸者や遊女が贈答品の準備に関わる様子が当時の風俗として親しまれていたことがうかがえます。 甘露梅は単なる菓子ではなく、新吉原のもてなしの心と贈答文化を象徴する名物でした。一粒の小さな梅には、遊女たちの手仕事、季節感、そして上客への感謝の気持ちが込められていたのです。 甘露梅の作り方「仲ノ町 甘露梅の仕込み図」画:歌川豊国 3世 刊行年:文政年間
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  • 甘藷百珍(いもひゃくちん) 2026年6月11日甘藷百珍(いもひゃくちん)
    書名:『甘藷百珍』 刊行年 文化13 もしくは寛政11年(1799年) 諸説あり板元〈江戸〉鶴屋/金助 〈京〉堺屋/嘉七 〈大阪〉塩屋/長兵衛 〈大阪〉塩屋/喜助作者:浪華の文人 珍古楼主人(ちんころうしゅじん) • 内容:サツマイモを用いた料理約123種を紹介 • 分類:江戸時代の「百珍物」 【概要】 『甘藷百珍(かんしょひゃくちん)』は、江戸時代後期の寛政11年(1799年)に刊行された、サツマイモ(甘藷)料理を集めた料理書です。※「百珍物」と呼ばれる料理本の一つで、日本の食文化史を知るうえで重要な書物として知られています。『甘藷百珍』には単なる料理法だけでなく、 食材の選び方 調理の火加減 盛り付け 酒席や季節に応じた献立 なども記されており、江戸後期の豊かな食文化と美意識を伝えています。当時の庶民の食生活を知る貴重な史料です。 焼芋は江戸庶民の人気のおやつであり、 「栗(九里)より(四里)うまい十三里」という売り声で知られていました。 サツマイモが救荒作物から日常食やご馳走へと変化した過程を示しており江戸人の創意工夫を垣間見れます。 さつまいものレシピを4カテゴリーに分類して123種紹介している。 奇品 (めずらしい料理)63品 尋常品(一般的な料理) 21品 妙品(くふうした料理) 28品 絶品 (おすすめ料理)11品 ※「百珍物」とは、一つの食材について多種多様な料理法を紹介する料理書で、『豆腐百珍』(1782年)の流行に続いて出版されました。※ 書名 刊行年 主な食材 『豆腐百珍』 1782年 豆腐 『万宝料理秘密箱』 1785年 各種料理 『甘藷百珍』 1799年 サツマイモ 『蒟蒻百珍』 1846年 コンニャク 当店、浮世絵カフェでは絶品から「いも田楽」と奇品から「御手洗いも」を再現してご提供しております。 ■いも田楽 (絶品)レシピ 「甘藷を蒸し、皮を去り、寸ばかりに切り、串にさし、味噌を塗りて焼く。」 サツマイモを蒸す。 皮をむく。 一寸(約3cm)ほどの大きさに切る。 串に刺す。 味噌を塗る。 炭火で香ばしく焼く。 ■御手洗芋(奇品) レシピ 「生にて擦り、麺粉少し入れ、金柑の大さに取りて蒸しあげ、青竹の串に五つ宛さし、砂糖豆油つけ焼きにする」 1 生のサツマイモをすりおろす。 2  小麦粉(うどん粉)を少量加える。 3  金柑ほどの大きさに丸める。 4  蒸し上げる。 5  青竹の串に5個ずつ刺す。 6  砂糖醤油をつけながら焼く。 甘藷百珍 出典 国書データベース
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  • 「青楼後朝雨」(せいろう きぬぎぬのあめ) 2026年6月6日「青楼後朝雨」(せいろう きぬぎぬのあめ)
    版元;蔦屋重三郎画師;栄松斎長喜刊行年;寛政4年から10年 当店の蔵書は昭和年代の複製出典;画像はボストン博物館 『青楼後朝雨』 は、寛政期を代表する浮世絵師・栄松斎長喜による美人画である。描かれた場所は大店の松葉屋の花魁、禿達の朝の様子を描いたようです。後朝の花魁の気持ちを代弁したようなウエット的(雨)な発句が寄せてあり、題名の後朝の雨につながっているようです。「後朝(きぬぎぬ)」とは男女が契りを交わした翌朝を意味し、平安文学以来の恋愛表現として広く知られていた。本図は吉原遊郭を舞台に、客との別れの後に訪れるけだるく物寂しい朝の情景を描いている。 この作品は単なる「美人画」ではなく、吉原文化の物語性を一枚の画面に凝縮した作品として評価できます。 「後朝(きぬぎぬ)」とは本来、 遊客が帰る朝 男女が別れる朝 交歓の余韻が残る時間 を意味します。江戸の吉原では、客は明け六つ(早朝)まで滞在し、その後に大門から帰りました。 長喜はこの瞬間を、 雨 朝の静寂 女性の仕草 によって詩的に表現しています。雨は単なる気象表現ではなく、「恋の名残」「別離の寂しさ」を象徴していると考えられます。遊女の心に残る恋の余韻や別離の哀感を象徴する。こうした情緒性は、華やかな吉原文化の裏側にある人間の感情を描き出したものとして高く評価される。 余談ですが、後朝をテーマにした和歌が平安時代の源氏物語や万葉集などに多数掲載されています。「後朝の文(ふみ)」と言って、帰宅後に男性から女性に手紙や和歌を送る風習がありました。江戸時代でも廓の女郎がマブと手紙のやりとりをしていたようです。 源氏物語から後朝の文の一例。 見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちに やがてまぎるる我が身ともがな これは、光源氏が義母と禁断の恋愛での光が後朝に詠んだものです。 【栄松斎長喜】 長喜は鳥山石燕門下に学び、喜多川歌麿と同門の絵師であった。出自も年齢も不明確で謎多き絵師でした。歌麿が女性の表情や心理を大首絵によって追求したのに対し、長喜は全身像による優雅な姿態表現を得意とした。細長い首、しなやかな身体、流れるような衣文線は長喜独自の様式であり、本図にもその特色が顕著にみられる。 長喜は版元・蔦屋重三郎に見出され、歌麿・写楽と並ぶ重要な絵師として売り出された。ポスト歌麿の最有力候補だった。本図も蔦屋が推進した寛政期美人画の流れのなかで生み出された代表作の一つであり、吉原文化と浮世絵出版文化の成熟を示す貴重な作品です。
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  • 「梅樹下の馬」(ばいじゅかのうま) 2026年5月25日「梅樹下の馬」(ばいじゅかのうま)
    画工 北尾重政版元 不明刊行年 不明 私が個人的にも好む清々しい錦絵です。満開の梅が咲き乱れる初春の水辺で、毛色の異なる3頭の馬がのどかに戯れる様子を描いた牧歌的な作品です。梅の香り、爽やか水風を感じさせる配色が素晴らしい。 見どころ:馬の毛並みやふくらみなどが、「空摺(からずり)」という凹凸をつける技法によって立体的に表現されています。空摺とは、絵具を使用せずに摺師の手作業で凹模様(エンボス加工)を和紙に付ける手法。動物の毛、鳥の羽、草花、雪、着物の柄など様々な要素の表現に用いられてきました。鈴木春信や喜多川歌麿も盛んに用いたと言われています。北尾重政は空摺の独特の技法を活かし、馬の存在感をより強調したのです。  当店蔵書はアダチ版画の復刻版です。
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  • 夏の風物詩を灯籠流しの起源とは?謎のゆりかもめの灯籠ながしが隅田川で人気に!有名団子やの入銀がきっかけ? 2026年5月21日夏の風物詩を灯籠流しの起源とは?謎のゆりかもめの灯籠ながしが隅田川で人気に!有名団子やの入銀がきっかけ?
    隅田川灯篭流し涼の真景版元 長谷川?画工 歌川国貞三世浮世絵カフェの蔵書 三社祭りが5月におわって浅草周辺では毎週のように夏イベントが実施されます。植木市、ほおずき市、隅田川の花火大会、灯篭流しへと。。。 本作品である「隅田川灯籠流し涼の真景」は明治11年に3代歌川国政によって描かれました。 現在ひろく知られる「隅田川とうろう流し」は、昭和21年(1946年)に終戦後の慰霊と浅草復興祭の一環として最初に行われました。関東大震災や東京大空襲など、隅田川沿岸で犠牲となった多くの方々の霊を弔い、平和を祈る法要として開始されました。現在では浅草隅田の夏三風物詩となっています。  国貞が描いたこちらの浮世絵は珍しい作品です。 ちりめん加工されている。(ぼろいだけという説もありますがちりめん絵ということで仕入れてますが・・・)ちりめんとは和紙で作られた浮世絵を木槌でたたいて加工してしわしわな手触りをたのしむ本や浮世絵です。  江戸後期から明治11年までに実際に催した灯篭流しの風景と推測しますが、灯篭が「ゆりかもめ」?しかも大量で異様な光景です。  これまで国書など調べていますが所以がわからなかった作品です。いつからゆりかもめの灯籠流しがはじまったのか?なぜ途絶えて誰もしらないのか?時期と理由をふくめて謎が多い画なのです。なお、江戸時代以前からゆりかもめは「都鳥」とも呼ばれていました。現在は東京都民の鳥としてなじみ深い鳥です。 絵の見どころ。 本作品の解説は探したが見当たらずですが、数点わかる範囲でご案内します。 ゆりかもめの灯籠が木船に張り子で作られてます。画だからこそ本物か?と見間違うレベルで再現されている。すごい!明治11年前後にはゆりかもめで灯ろう流しする慣習があったのかも? ゆりかもめを釣り上げている竿がある(真ん中の絵) つりかもめを釣り竿で釣っていた?もしくはリリースしていたと思われます。さらに遠目には巨大ゆりかもめも認められます。 屋形船には役者や柳橋の芸者が便乗していると思われます。 背景には筑波山まで見通せる風光明媚な場所(森真崎周辺;現在の白髭橋周辺だと推測します) 時期は川開き以降で5月28日以降の3か月以内だと思われます。 大川(隅田川)両国の川開きは旧暦5月28日の川開きから川じまいの8月28日まで、両国橋のたもとの広小路や川端に芝居小屋や露店、屋台の夜店の出店が期間限定で許可されました。船宿や料理茶屋が客をもてなす納涼船も許可されました。八代将軍・徳川吉宗の時代、享保18(1733)年の川開きに初めて花火が打ち上げられ、これが現在の隅田川花火大会の起源とされています。許可された3カ月の納涼期間中の灯籠流しは実施されたと思われます。 ■灯籠流しは言問団子の広告が起源か?  言問団子のはじまりは、明治元年(1869)「植佐」と呼ばれた植木職人・外山佐吉が、隅田川の堤に茶店を開き、団子を売り始めたのが始まり。商品名の由来は在原業平が詠んだ『古今和歌集』に、都鳥に“言問う”という語があった。その古歌にちなみ、団子に『言問団子』としたそうだ。 「名にしおはば 言問はん都鳥 我が思ふ人は ありやなしやと」 ここでゆりかもめ=都鳥ということがヒントになりました。実は、この浮世絵は言問団子の広告が関係しています。すぐ近くの「長命寺の桜もち」が看板娘効果で大繁盛していたのに対し、団子の売れ行きは芳しくなかった。そこで言問団子のネーミングとセットで和歌をつかった看板プロモーションを実行したという。墨堤(隅田川沿いの堤防に言問団子は所在する)は桜の時期が終わると夏秋冬は客が減ってしまう。主の植佐は牛島弘福寺の盆の燈籠流しを復活させることを思いつく。明治11年(1878)、大警視・川路利良の許可を得て、7月1日より1か月間、隅田川に都鳥の形をした燈籠を流したという。新聞各紙がこれを報じ、浮世絵にも描かれたことで、店の評判はさらに高まったようだ。本作品に明治11年8月5日刊と記載があるので最初の言問団子のイベントを何かしらの縁で国貞が描いたのだと思われます。古書に墨水流燈会之記(ぼくすいりゅうとうえのき)にはゆりかもめ灯籠の詳細絵図が記載されている。本灯籠流しは人気を博して7年も続いて、いったん休憩したが2代目二代目・外山新七がすぐに復活させたそうだ。なお、墨水流燈会之記の奥付をみたところ本書は新七が刊行した書物である。団子販売だけではなく書物まで編纂し刊行するとは優秀なアイデアマンだったのであろう。これらの背景を整理する限り本作品は言問団子の入銀(広告)ものだった可能性もある。 墨水流燈会之記 明治20年刊 版元 新七(言問団子二代目) 【画工紹介】 梅堂国政 バイドウ クニマサ(四代国政→明治22年歌川国貞三代を襲名) 江戸日本橋に生まれる。本名は竹内栄久。幼名は期太郎。四代歌川国政。15歳で初代歌川国貞門下に学びはじめたが、3年後に師匠がなくなった。その後は二代国貞に学んだ。1889(明治22)年に三代香蝶楼国貞を襲名。一寿斎、香蝶桜とも号し、国貞襲名以降は豊斎、芳斎などと称した。南総里見八犬伝、桃太郎鬼ヶ島でん、赤穂義士村松三太夫伝など表紙と挿絵を多数描いた。また役者絵や明治の開化絵として蒸気機関車を多数のこした。
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  • 当世美人色競べ・山下花(とうせいびじんいろくらべ・やましたのはな) 2026年5月14日当世美人色競べ・山下花(とうせいびじんいろくらべ・やましたのはな)
    • 画工;北尾政演 • 版元 不明• 制作年 天明期? 当世風(最新)のファッション誌的な位置づけの美人画シリーズです。 江戸で当時に流行していた髪型や華麗な小袖模様の着物。 仕草の粋さなど江戸女性の流行美が描かれています。 単なる肖像ではなく、“江戸の流行そのもの”を描いた作品といえます。 北尾政演(山東京伝)の傑作といえる「当世美人色競べ・山下花」揃いもの(シリーズ)美人画です。当店で展示しているのは復刻版です。 本作品は描かれた時期と版元ははっきり分かっていません。蔦屋重三郎・西村屋与八・鶴屋喜右衛門などの可能性がありますが、おそらくは蔦屋ではないと思われます。 多色摺りの豪華な錦絵になっており構図・描線などから画工、政演のポテンシャルが発揮された優れた作品と言われます。「当世美人色競べ」はのちに刊行される名作の「吉原傾城 新美人合自筆鏡」にはない上品な雰囲気。描線が力強いのも特徴です。個人的には清長風?とも感じる色彩感覚です。 モデルになった女性達は、台東区上野、山下地区の住人で「けころ」という私娼だったという説があります。「けころ」とは蹴転ばし(けころばし)が略された表現です。女郎と手軽に遊ぶことを「転ぶ」と揶揄したという説もあります。 当時の江戸では政演は比類するものはない、間違いなくトップ作家でありアーティストでした。青楼を知り尽くした本当の通人だった政演は、大店の花魁から下級河岸の女郎まですべての女性を慈しみ、艶、美を見出していたのです。低い身分の「けころ」が軽視されていた面もあったようですが、若い女性らしく流行に敏感な一面もあることを可憐な仕草と当時の流行のファッションで「けころ」の3人を描いています。
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