『碁太平記白石噺(ごたいへいき しらいしばなし)』蔦重の思慮深さとセルフプロデュース力が桁違い!

【新作品展示案内】
白石噺敵討の圖 一勇斎国芳 画
新吉原の段 碁太平記白石噺(当時の台本)

『碁太平記白石噺』は、江戸時代に実際に起きた仇討ち事件をもとに dramatized(脚色)された浄瑠璃・歌舞伎の名作で、近松半二、並木五瓶、竹田小出雲、烏亭焉馬などの合作で全11段で構成されています。安永6年(1777年)に大坂竹本座にて初演されました。百姓・与茂作の娘である姉妹、宮城野と信夫は、父を旗本・志賀団七に殺され、仇討ちを誓う。姉は吉原の遊女となって身を立て、妹は武芸を修めて再会。幕府の許可を得て、白石川でついに父の仇を討つ。

作中屈指の名場面は「新吉原の段」です。この段は戯作者・烏亭焉馬によって書かれ、姉妹の再会と仇討ちの決意を情緒豊かに描き出します。蔦重は烏亭焉馬と親しかったと考えられます。

「新吉原の段」は、姉妹の再会と決意が描かれる感動的な場面です。ここでは姉・宮城野が吉原の大福屋で傾城として働く姿が描かれ、遊女の世界と仇討ちという武士道の価値観が交差するのです。またこの段には「本重(ほんじゅう)」という貸本屋が登場し、物語に登場する絵入り草子や読本を売り込むシーンがみられます。この本重は、実在の出版人・蔦屋重三郎をモデルにした人物で、彼自身もこの演目の出版・宣伝に深く関与していました。蔦屋は浮世絵師や役者と連携し、本作を芝居だけでなく、絵入り草子や錦絵としても大衆に広めた立役者だったのです。蔦重は浄瑠璃や歌舞伎の人気を利用して出版物に売上をつなげたビジネスモデルを作った好例といえます。芸術・興行・マーケティング・そして自社ブランディングへと多面的に思慮深く蔦重が出版業を考えていたことがわかる興味深い作品でした。

 当店では、一勇斎国芳が嘉永六年に作成した見事な3枚つづりの仇討ちシーンと本作品の新吉原の段の台本を季節展示します。

 浮世絵カフェ蔦重では数か月単位で展示物を変更します。

Xでは変更する作品を一足先に数点ご案内していきたいと思います。ご期待ください!

大河ドラマ~べらぼう第22話


恋川春町と山東京伝が31字の「屁」で狂演
小悪魔!多賀袖が本領を発揮

大河ドラマ「べらぼう」では蔦重と狂歌師たちとの歓談のなかに、クスっと笑えるシーンが続出しますが、22話では恋川春町がやってくれました。個人的にはこれまでの全22話で一番笑えました。そもそも恋川春町の狂名がおもしろい。狂名とは狂歌師の作者としての号のこと。狂名にはユニークなネーミングが多く、なかでも恋川春町の「酒上不埒(さけのうえのふらち)」は私の一番のお気に入りです。そんな春町は前話の21話で行われた喜多川歌麿のお披露目会でも泥酔し、山東京伝に「自分の作品をパクった」と盗人呼ばわりして絡んだあげく、最後は筆を折って絶筆を宣言しました。そんな醜態を見せたことから引くに引けなくなり、蔦重の仕事の依頼も断り続けていましたが、歌麿と喜三二に励まされながら、画期的なアイデアを思いつきます。そして、自分の名前「恋」・「川」・「春」・「町」の4つの漢字を偏にし、「失」という漢字を旁にした不思議な漢字が書かれた一枚の紙をもって耕書堂にやってきます。漢字の意味は、「恋」に「失」で『未練』、「川」に「失」で『枯れる』、「春」に「失」で『はずす』、「町」に「失」で『不人気』とのこと。これを聞いた蔦重は吉原を題材とした「春町文字」を作ることを提案し、往来物の「※1小野篁歌字盡おののたかむら うたじづくし」の文字並びを参考にして、漢字遊びの青本「廓愚費字尽 さとのばかむら むだじづくし」を出版します。これにより一時のどん底状態から復活した春町ですが、22話の終盤でまたしてもやってくれました。

※1「小野篁歌字盡」とは?

往来物の超ベストセラーであり寺子屋の崩し字入門書です。漢字のグループを和歌で覚える仕掛けが巧妙で“歌×字”という学習スタイルが当時の庶民に受け入れられました。ちなみに平安時代の小野篁は公卿でしたが、この著者ではありません。漢詩・和歌の達人だったので権威付けで本書の名前に小野篁が使用されたようです。書浮世絵カフェ蔦重では天明4年刊行の本物「小野篁歌字盡」が展示中です。

今度は、蔦重が仕事仲間を集めて開いた忘年会にて、蔦重の兄・治郎兵衛が三味線を弾いて参加者の注目を集めるなか、ふんどし姿の春町が登場。そして「皆さまにはせめて年のしまいにお笑いいただきたく! よ~」と叫び、「プー」とオナラをしながら踊りだしました。さらに、オナラを出し尽くした後は「ぷーっ、ぷーっ」と声を出しながら踊る放屁芸を見せたことで、会場の笑いは最高潮に。まさに「酒上不埒」の名にふさわしい不埒な宴会芸に、爆笑したドラマ視聴者も多かったと思います。また、今回は蔦重を慕ってきた花魁・誰袖の小悪魔ぶりも印象的でした。誰袖は前話から、蝦夷地を松前藩から召し上げる上地を行うため、松前藩による密貿易「抜け荷」の証拠を見つけようと吉原に潜入する老中・田沼意次の嫡男、意知に接近。大胆にも自らスパイとなって松前藩の抜け荷の証拠を見つけたら、代わりに自分を見請けして欲しいと迫ります。そして、吉原にやってきた松前藩当主の弟・廣年に接触し、密貿易の証を探り出そうとします。これは、まさに江戸時代版ハニートラップ。蔦重の活躍だけでなく、誰袖からも目が離せなくなってきました。

大河ドラマ~べらぼう第21話

画像 吉原傾城 新美人合自筆鏡
出典 ColBase 

怪演!えなりかずきさん
2代大文字市兵衛を伊藤淳史さんがキャラ変えで名演技!

 えなりさんが見事に豪胆かつ傲慢な松前藩主役を演じてました。怖かった。伊藤淳史さんは初代の大文字文楼が亡くなって養子として2代目大文字市兵衛を継いで再度出演してましたが、しなをつくって初代とは対照的な女性的なキャラだったので見た目は伊藤淳史でもすぐに見分けがつきますね。台風の目の小悪魔「誰袖」も2代目大文字屋の花魁として徐々に本領を発揮していきそうで怖い。

さて、大河ドラマ「べらぼう」で順調に成り上がってきた蔦重ですが、21話では大きな挫折を味わいました。前話で西村屋の「雛形若菜初模様」をパクって出版した「雛形若葉初模様」が、全然売れないのです。理由は、「指図」。指図とは、摺師が作品の摺りを行う際に絵師や版元から受ける指示のことです。色の配置や濃さ、摺る位置や紙のサイズなど、さまざまなことを指図しますが、これにより版画の最終的な完成度がかなり変わるのです。要するに、モノマネ上手な歌麿のおかげで元祖に負けない下絵は描けても、蔦重の指図の力量不足により発色が悪く、結果的に西村屋の錦絵に及ばなかったというわけです。これは、現代社会でも同じですよね。例えば、生成AI。生成AIでクリエイティブなものを生み出すことはできますが、生成AIに何を作ってほしいのか、具体的に、的確に指示を出せるかどうかで、完成品の質が変わります。

 この具体的で的確な指示を出せるようになるためには「経験」が重要ですが、蔦重もその「経験」が足りなかったということです。私も似たような経験を最近しました。浮世絵カフェ蔦重では、新たな挑戦として自らが版元になって、蔦屋重三郎の名作を復活させることに挑戦しています。木版画の制作工程では版元と彫師・摺師さんたちへ指示をしなくてはいけない場面に遭遇しています。復刻木版画の制作には工程・技術・素材・時代背景など総合的な知識と経験が必要であり、さらに職人さんたちとの良好なコミニケーションが最重要だと痛感しました。版元がたしかな指示ができないと意図した作品は出来上がりません。今回のドラマでは、経験と知識の両方が蔦重には足りなかったと思われます。西村屋のいうとおり多色刷り錦絵は一朝一夕の生半可知識ではできません!

 

また21話では、落ち込む蔦重にさらに追い打ちをかけるような出来事が起こります。

その要因を作ったのが私の推し、山東京伝(北尾政演)でした。政演が山東京伝という名で、鶴屋から青本を出版したのです。蔦重はそれまで、絵師としての北尾政演と深く交流していましたが、政演の戯作者としての才能を見出すことはできませんでした。その才能を、よりによって蔦重と因縁深いライバル店の鶴屋が見出したのです。そのおかげで、山東京伝は大きく飛躍していきました。自分の力量不足を痛感し、自信を失う蔦重でしたが、大田南畝が「経験不足が蔦重のいいところ」と励まします。「だからこそ、ずっとやってる奴には出せねえものを出せんじゃねえか」という言葉で、蔦重は自分の強みが企画力にあることを再認識します。

 近い将来に蔦重は今回の挫折を乗り越えて山東京伝とは黄金コンビとなって「吉原傾城 新美人合自筆鏡」を完成させます。このエピソードはもうちょっと先の話になりそうですね。

そこから、続々とアイデアを口にするのですが、山東京伝と黄表紙、洒落本でヒット作を連発します。それは今後のドラマの楽しみですね。

また、今回の見どころとしては役者さん達の演技が印象的でした。松前藩主・松前道廣を演じたえなりかずきさんの怪演、花魁の誰袖を演じる福原遥さんの妖艶な演技、前話で亡くなった「かぼちゃの旦那」こと大文字屋の二代目として再登板となった伊藤淳史さんが演じた、前キャラクターとのギャップの激しさなど、見どころが満載でした。今後の展開が楽しみです!

【大河ドラマ~べらぼう】第20話

鳥居清長の「雛形若菜初模様」松葉屋の瀬川
出典 東京国立博物館

蔦重と太田南畝との出会いが狂歌集や狂歌絵本につながる

いけいけどんどん耕書堂

江戸時代を代表する文化人の一人、大田南畝との出会いをきっかけに、蔦重が狂歌の世界に―。狂歌とは和歌の形式の中に社会風刺や皮肉をこめた文芸で、蔦重の時代には浮世絵などの挿絵が添えられた狂歌本が誕生。天明年間(1781年~1789年)に大流行し、大田南畝など数多くの狂歌師が活躍しました。大河ドラマ「べらぼう」20話では、蔦重と大田南畝の出会いが描かれ、南畝の軽快なトークや発想力、さらに南畝の誘いで見学した狂歌の会ですっかり狂歌に魅せられた蔦重は、狂歌を流行らせることを決意します。一方、長く続いた耕書堂VS地本問屋連合との戦いにも大きな進展がありました。これまで、蔦重は市中の地本問屋との取引から仲間外れにされていたため、耕書堂発行の本は江戸市中に出回ることはありませんでした。ところがある日、喜三二の「見徳一炊夢」の仕入れを求める地本問屋が現れます。驚く蔦重が「仲間内に対しては大丈夫なのか」と問うと、「今年一番の評判の本を置いてねえってのは、本屋としてマズいでしょって、言い訳ができんだろ」と言うのです。要するに「言い訳さえ立てば、耕書堂の本を扱ってもらえる」というわけです。ここに勝機を見出した蔦重は、ある大胆な戦略に踏み切ります。

当時、美人画で絶頂期を迎えていた浮世絵師の鳥居清長が絵師を務め、ライバル店で大店の西村屋が発行する錦絵「雛形若菜初模様」が江戸市中で人気を博していました。そこで、蔦重は鳥居清長の画風にそっくりな花魁の錦絵を喜多川歌麿に描かせ、一字違いの「雛形若葉初模様」と題して、吉原を訪れる旦那衆に営業。しかも絵師がまだ無名だった歌麿だったため、西村屋の半分の入銀(本などの購入を希望する者から集める予約金)で販売したため、耕書堂に乗り換える旦那衆が続出しました。これを見た市中の中小の地本問屋達はビジネスチャンスを活かすため、大店たちに耕書堂との取引を認めるよう詰め寄ります。これにより取引が認められ、耕書堂は正式に江戸市中の本屋と取引ができるようになりました。著作権のある現代では考えられないことですが、ドラマで描かれる耕書堂VS地本問屋連合では、このようなずる賢い戦略が次々と繰り広げられています。今回の20話では、怒った西村屋が蔦重を責めた際、蔦重が「汚ねえやり方もありだって教えてくれたのは、西村屋さんですから」と言い返しました。このシーンを見て、スカッとした視聴者は多いのではないでしょうか。

寝惚先生文集 太田南畝作  
天明狂歌ブームをつくった名作。太田南畝は狂歌の中興の祖とよばれる

「通(つう)と穿ち(うがち)」を知り尽くした究極の通人&ハイパークリエイター山東京伝

大河ドラマもいよいよ中盤となって、蔦重の事業は拡大していくようです。その中でもっとも大きく貢献するのが山東京伝ではないでしょうか。
 現時点で歌麿の知名度が圧倒的ですが、山東京伝はクリエイターとしての総合力では歌麿をはるかに凌駕していたように感じています。詠えて、描けて、文才もあるうえに、イケメンで、花魁を二人身請けするなど通人の極みを具現化した江戸っ子だったように思えます。
たまたま私の蔵書に多く山東京伝(北尾政演)作品が多かったことも影響しているかもしれません。山東京伝推しはあくまで個人的な思いもありますが、客観的に評価が高い傑作も多数あります。黄表紙の傑作「江戸生艶気樺焼」洒落本の傑作「通言総籬」と頂点の誉れ高い「傾城買48手」は山東京伝の作品です。これは傾城通いで吉原の風俗慣習と女郎のとの手練手管を知り尽くした京伝でないと描けない世界観をもった作品です。究極の通と穿ちを理解していた。通人の極みは山東京伝といっても過言ではないでしょう。
その絶頂期である1791年の筆禍事件で幕府からは世俗を乱したとして洒落本三部作の「仕掛文庫」などが絶版となります。手鎖50日となってからは、洒落本から距離をおいて教訓本へ趣向を変えてしまい、京伝節の穿ち(うがち)の鋭さが衰えたような評価をする専門家もいるようです。
しかしながら、1793年の黄表紙「堪忍袋緒〆善玉」で山東京伝は復活します。師匠の北尾政信が画を描き、作は山東京伝のチーム北尾を再結成。善玉悪玉と主人公の心の葛藤から教訓を見事に描きつつ、さらに悪玉踊りでブームをつくるなど江戸町民への影響力は衰えることはありませんでした。

序盤の耕書堂を大いに支えた戯作者は朋誠堂喜三二でしたが中盤はきっと山東京伝が活躍するでしょう。
イケメンのハイパークリエイターである山東京伝は、かなりドラマティックな人生だったように見受けられます。べらぼうではどのように扱われるのか楽しみです。

 上記に記載されている山東京伝の江戸期のオリジナル作品は浮世絵カフェ蔦重で展示中です。是非、本物の蔦屋重三郎と山東京伝の作品に会いに来てください。

【大河ドラマべらぼう】19話

いや~流星さん凄い演技でしたね!愛之助さんにもしびれましたよ!最高でした。

先週に続いて昨日も江戸の義理人情を大いに感じる展開でした。涙腺崩壊したひとも多数いたはず!

さて、あらすじですが、、、

 大河ドラマ「べらぼう」の19話では、蔦重の版元事業の原点であり、ライバルでもあった地本問屋「鱗形屋」が店を畳むことになり、そのお抱え作家・恋川春町の移籍を巡り話が展開されました。

 当初、春町は業界大手の「鶴屋」へ移籍する予定でしたが、考え方の違いにより両者は衝突。売れる本を優先したい鶴屋は、春町のかつての大ベストセラー「金々先生栄華夢」の続編を書くことを望みます。しかし、春町は「同じことをやるのは、俺は好きではない。読み手にも無礼であろう」と拒み、両者の溝は深まるばかりでした。

そんな春町を自陣営に引き入れたい蔦重でしたが、蔦重は恩人である鱗形屋から仕事を奪った盗人として、相手にされません。そんな折、春町の境遇を憂いた鱗形屋が、過去の因縁を乗り越え「お前さん、ひとつ鶴屋から春町先生をかっさらってくれねえか」と、蔦重に手紙を出します。


この思いがけない提案を実現するため、蔦重は新しいものにこだわる春町の思いを動かす案思(作品の構想)作りに着手します。そして、鱗形屋、喜三二、歌麿、遊郭の人々などを巻き込んで案を練った結果、「百年先の江戸」という構想に辿り着き、「この先の江戸を描きませんか。誰も見たことのねえ、百年先の江戸を」と、春町に提案。案を聞いて興味を持ちつつも難色を示す春町に対し、蔦重は「春町先生が考えた、奇天烈で、けど膝を 打つような、そんな百年先の江戸を見てみてえんでさ」と口説き、ついに春町の心を動かすことに成功しました。その後、鱗形屋は店を引き払う際に蔦重へこれまでのことを詫び、「塩売文太物語」の板木を手渡します。塩売文太物語とは、蔦重が幼いころに初めて買った本であり、瀬川に渡した思い出の赤本です。蔦重は板木を手に涙をぬぐいながら「俺にとっちゃ、こんなお宝はねえです」と言って、蔦重と鱗形屋の二人は和解していきました。

【出典】
国立国会図書館,デジタルコレクション

【大河ドラマべらぼう】18話

唐丸が再び登場!

あの、喜多川歌麿がついに耕書堂に―。

「べらぼう」の18話では、蔦重が見出した天才絵師・喜多川歌麿が登場し、蔦重の義弟として迎え入れられました。喜多川歌麿は美人画の大家として知られ、現在も世界的に高い評価を受ける浮世絵師です。

生年、出生地、出身地などは不明ですが、ドラマでは一時期、蔦重の仕事を手伝っていたものの行方不明になっていた少年・唐丸として設定。

 18話で再会したのですが、壮絶な半生が告白され、売春していた母親に愛情を受けることなく育ったこと、7歳の頃から身体を無理やり売らされていたこと。

そして、江戸の大火で建物の下敷きになった母親を置いて逃げたことなどが打ち明けられました。

その後、唐丸は捨吉と名乗り、絵の代筆や男娼として生計を立て、自分の身体を痛めつけるような生活をしていましたが、蔦重がたすけることに。

 今後、蔦重と共に第二の人生を生きていきます。ドラマでは、歌麿が絵を学んだとされる鳥山石燕も登場。

唐丸の壮絶な幼少期における唯一の安らぎの時間として、鳥山石燕との触れ合いが描かれていました。

鳥山石燕は江戸中期の浮世絵師で、妖怪画で知られる人物です。「ゲゲゲの鬼太郎」の作者・水木しげるも多大な影響を受けたと言われています。歌麿の意外なルーツとして、鳥山石燕の妖怪画も楽しみたいですね。

★★★蔦屋重三郎ゆかりの地にあるカフェ美術館★★★ 

吉原大門口「浮世絵カフェ蔦重」
本物の蔦重作品を展示中!
https://www.ukiyoecafe.jp/
台東区千束4-11-16

出典画像
鳥山石燕画「画図百鬼夜行」より①河童・かわうそ②天狗とやまびこ。
『画図百鬼夜行』(江戸東京博物館所蔵) 出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100450747

べらぼう豆知識

第17話の「往来物」とは?
蔦重が往来物を売りたがったそのワケ?

大河ドラマ「べらぼう」第17話で中盤へ話が展開しています。

蔦重は市中の版元の抵抗もあって細見を吉原の外では販売が難しくなっていました。そこで目を付けたのが「往来物」と呼ばれる学習教材を地方に販売する事でした。

往来物は近代小学校が設立される以前の900年間で日本の学びを支えた寺子屋で使用した教材です。天下泰平となった江戸時代は教育が大きく出世に影響しました。

販路開拓と購入者を同時に獲得する手段として実力者に編集協力を依頼しつつ、本ができあがると、その編集に関わった実力者自身が自慢したいがために自ら購入することを見通していました。蔦重の策士としての一面が発揮されたシーンです。おそらく実際の蔦重は、派手な一面より堅実かつ緻密な計画を立てた経営者だったことが彼の作品から想像ができます。

また、蔦重が往来物を扱った理由としては、毎年安定した売り上げが見込めたからと推測します。寛政年間には全国で1万ほどの寺子屋があったといわれています。寺子屋には毎年新入生が入ります。江戸時代は6歳から17歳くらいまで手習いとして寺子屋などで武士だけでなく商人、農家も机を並べて学んでいました。毎年、新入生が往来物を購入したり借りたりするのです。部数は少なくても安定的な売上になったのでしょう。1つの板で長い間売上が作れるので翌年の売上が予想できたのです。しかも都市部に限らず地方も含めて販売できました。  往来物には手紙の往来の文例集が始まりといわれています。漢字の読み方や書き方、算術、地理、歴史など、幅広い内容が網羅されました。有名な作者には高井蘭山や十辺舎一九などもいました。代表的な「庭訓往来」では、武家社会の礼法や書簡の作法などをまとめたもので、江戸時代には広く普及しました。また吉田光由「塵劫記」に代表される和算は世界的に見ても高度な算術が記載されており、算盤をつかった効率的な数学体系が地方まで浸透していました。大河ドラマべらぼうのなかでは耕作往来(農業向け)や大栄商売往来(商人向け)が紹介されていました。浮世絵カフェでは蔦屋重三郎が作成した代表的な往来物として『利得算法記』『女今川艶紅梅』を江戸期オリジナル作品を展示中です。

利得計算法記  耕書堂版 1788年 天明8年 斎藤貴林[撰]
女今川艶紅梅(おんないまがわつやこうばい)天明1年 耕書堂板

参考図書 国書データベース

新吉原大文字樓繁栄図 カボチャの市兵衛

新吉原大文字樓繁栄図 歌川国周

概要
● 著者国周・筆
● 出版社辻亀板
● 刊行年明治
● 冊数3枚続
● 解説錦絵3枚続

新吉原の三大妓楼とよばれた大文字屋 初代文楼(だいもんじや ぶんろう生年不詳)は、新吉原の妓楼「大文字屋」の主人。通称は市兵衛。文楼は号。狂歌師として知られる同名の人物(狂名・加保茶元成)はべらぼうに出演しているのは養子(市兵衛)。

概要

文楼は伊勢国の出身で寛延3年(1750年)新吉原で遊女屋を始めたとわれる。当初は下級の河岸店を営んでいたが、宝暦2年(1752年)京町一丁目(台東区千束4-40-6 台東区立吉原公園)に移って「大文字屋」と号し有数の大店経営者となりました。当初は家名より村田屋と称していたようですが、家と諍いがあって暖簾を没収されたため、移転を機に新調した暖簾に「大」の字を入れて新たな屋号としたらしい。妻は吉原連の女流狂歌師として知られた相応内所(本名・仲)。後に養子にとった二代目文楼(市兵衛)婿いりして2代目を継いだようです。としている。安永9年(1780年)60余歳で没。法名は釈仏妙加保信士だそうです。戯号に合わせて法名までカボチャ!

奇行家として知られ、まだ河岸店のころに抱え遊女の惣菜として大量のかぼちゃを買い入れたことから「かぼちゃ(加保茶)市兵衛」とあだ名された。また頭が大きく背が低かったことが由来とも言われ、「ここに京町大文字屋のかぼちゃとて。その名は市兵衛と申します。せいが低くて、ほんに猿まなこ。かわいいな、かわいいな」と揶揄されたが、これを自ら進んで歌い踊り、却って自店を喧伝したという。これは吉原中から江戸中へ広まって流行歌となり、多くの替え歌が作られた。また園芸を好み、マツバランに斑を入れる工夫をして「文楼斑」のと名付けられている。

【大文字楼の大名跡、誰袖(たがそで)】
青楼七小町で歌麿も描いた「大文字屋内多賀袖」

大名跡 大文字屋 多賀袖 歌麿

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で福原遥が演じているのが大文字屋の花魁(おいらん)である誰袖(たがそで)です。

蔦屋重三郎が作った吉原細見にも大文字屋にそれぞれの遊女の名前に「たがそで」の横には「よび出し」と書かれています。

当時、吉原の高級遊女である花魁の中でも、呼び出しは最も格が高い花魁でした。まさに大文字屋の大名跡と言える花魁だったのでしょう。

天明四年(1784年)の正月に発行された吉原細見からは誰袖がなくなっています。土山宗次郎によって身請けされた年なのです。

天明 3年(1783年)正月刊行の万載狂歌集(まんざいきょうかしゅう)の編集者は 四方赤良 と 朱楽菅江。 刊行者は須原屋伊八で232人の748首を集める。その一人がこの誰袖だ。‘わすれんとかねて祈りし紙入れの などさらさらに人の恋しき‘

と詠った。当時の花魁はあらゆる芸事に通じていて狂歌も心得ていた。

大文字屋の誰袖は天明四年に旗本の土山宗次郎によって1200両という大金で身請けされた。

土山宗次郎は元々は御家人でしたが、旗本になり、田沼意次の下で勘定組頭を務めた。田沼派としてなかなか優秀な人物だった。しかし、田沼の失脚に伴い、横領が発覚し、逃亡します。その後の誰袖は所在不明になっている。華やかな吉原時代に浮名をながし、大金で見請けされたにも関わらず薄幸な生涯でした。

天保六年新吉原仮宅場所一覧 (てんぽうろくねんしんよしわらかりたくばしょいちらん)

制作年:天保6年(1835)
作者:歌川国直/画 
版元:蔦屋重三郎Ⅲ版 浅艸雷神門内店

新吉原仮宅場所一覧

江戸時代(通算260年)における大火の発生は、約90件と記録されている。3年に1度は江戸の町の大半が大火に見舞われたのである。そのたびに新吉原は臨時営業で仮宅として近隣に間借りして営業を続けた。岡場所と区別するために幕府公認の証文と看板を掲げて営業を続けたという。意外なことだが仮宅はむしろ利便性が高まって客が増えたという。郭内の出火原因のほとんどは女郎の放火であった。死罪は免れない大罪だが、そこまでしてでも廓をでたい女郎は後を絶たなかった。

江戸三大大火として知られる火災がある。

明暦の大火

 明暦3年(1657)正月18日本郷丸山本妙寺から出火した。振袖を本妙寺で焚き上げしたところ、飛火して大火になったことから振袖火事ともいわれる。

出火によって江戸城本丸、ニノ丸、三ノ丸はじめ武家邸500余、寺社300余、倉庫9,000余、橋梁61を焼失、死者10万余人ともいわれ、江戸時代最大の大火となった。復興では防火を優先した都市づくりがなされた。

明暦の大火の絵
「写真図説日本消防史」より

明和の大火

 明和9年(1772)2月29日、目黒行人坂大円寺から出火し、麻布、芝から日本橋、京橋、神田、本郷、下谷、浅草と下町一円を焼失し、死者は数千人にも及んだといわれる。別名行人坂火事。

「写真図説日本消防史」より

文化の大火

 文化3年(1806)3月4日芝車町から出火し、日本橋、京橋、神田、浅草に延焼した。武家邸80余、寺社80余、500余町が焦土となり、死者は1,200余人といわれる。別名車町火事、あるいは丙寅火事ともいわれる。
 

明暦・明和・文化の大火の3つが江戸三大大火といわれている。

絵の左下に板元として「浅艸雷神門内 蔦屋重三郎」の名が記されるが、これは3代目蔦屋重三郎のこと。天保6年正月25日、角丁より出火した火災により新吉原遊廓は全焼し、本図はその仮宅の案内図である。浅草寺を中心に、吉原、隅田川を俯瞰(ふかん)した図で、まるでヨーロッパの港のように道が婉曲(えんきょく)している。細部に目を凝らすと、町家の屋根の上に、妓楼の規模を示す記号と、楼主の名が記されている。
「吉原細見の世界Ⅲ前編」:3代目蔦重による仮宅案内図。天保 6 年正月25 日、角町より出火した火災により新吉原遊廓は全焼した。町家の屋根の上に、妓楼の規模を示す記号と、楼主の名が記されている。左側の吉原遊郭の地にも妓楼の記号・名が記され、吉原外に行かないで新吉原内において仮宅営業をした店もあった点がわかる。
 仮宅は、本所・深川地区にも設けられたが、本図では山の宿、花川戸など台東区内に限定して描かれている。

参考資料 
・台東区立図書館・消防防災博物館