新吉原大文字樓繁栄図 カボチャの市兵衛

新吉原大文字樓繁栄図 歌川国周

概要
● 著者国周・筆
● 出版社辻亀板
● 刊行年明治
● 冊数3枚続
● 解説錦絵3枚続

新吉原の三大妓楼とよばれた大文字屋 初代文楼(だいもんじや ぶんろう生年不詳)は、新吉原の妓楼「大文字屋」の主人。通称は市兵衛。文楼は号。狂歌師として知られる同名の人物(狂名・加保茶元成)はべらぼうに出演しているのは養子(市兵衛)。

概要

文楼は伊勢国の出身で寛延3年(1750年)新吉原で遊女屋を始めたとわれる。当初は下級の河岸店を営んでいたが、宝暦2年(1752年)京町一丁目(台東区千束4-40-6 台東区立吉原公園)に移って「大文字屋」と号し有数の大店経営者となりました。当初は家名より村田屋と称していたようですが、家と諍いがあって暖簾を没収されたため、移転を機に新調した暖簾に「大」の字を入れて新たな屋号としたらしい。妻は吉原連の女流狂歌師として知られた相応内所(本名・仲)。後に養子にとった二代目文楼(市兵衛)婿いりして2代目を継いだようです。としている。安永9年(1780年)60余歳で没。法名は釈仏妙加保信士だそうです。戯号に合わせて法名までカボチャ!

奇行家として知られ、まだ河岸店のころに抱え遊女の惣菜として大量のかぼちゃを買い入れたことから「かぼちゃ(加保茶)市兵衛」とあだ名された。また頭が大きく背が低かったことが由来とも言われ、「ここに京町大文字屋のかぼちゃとて。その名は市兵衛と申します。せいが低くて、ほんに猿まなこ。かわいいな、かわいいな」と揶揄されたが、これを自ら進んで歌い踊り、却って自店を喧伝したという。これは吉原中から江戸中へ広まって流行歌となり、多くの替え歌が作られた。また園芸を好み、マツバランに斑を入れる工夫をして「文楼斑」のと名付けられている。

【大文字楼の大名跡、誰袖(たがそで)】
青楼七小町で歌麿も描いた「大文字屋内多賀袖」

大名跡 大文字屋 多賀袖 歌麿

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で福原遥が演じているのが大文字屋の花魁(おいらん)である誰袖(たがそで)です。

蔦屋重三郎が作った吉原細見にも大文字屋にそれぞれの遊女の名前に「たがそで」の横には「よび出し」と書かれています。

当時、吉原の高級遊女である花魁の中でも、呼び出しは最も格が高い花魁でした。まさに大文字屋の大名跡と言える花魁だったのでしょう。

天明四年(1784年)の正月に発行された吉原細見からは誰袖がなくなっています。土山宗次郎によって身請けされた年なのです。

天明 3年(1783年)正月刊行の万載狂歌集(まんざいきょうかしゅう)の編集者は 四方赤良 と 朱楽菅江。 刊行者は須原屋伊八で232人の748首を集める。その一人がこの誰袖だ。‘わすれんとかねて祈りし紙入れの などさらさらに人の恋しき‘

と詠った。当時の花魁はあらゆる芸事に通じていて狂歌も心得ていた。

大文字屋の誰袖は天明四年に旗本の土山宗次郎によって1200両という大金で身請けされた。

土山宗次郎は元々は御家人でしたが、旗本になり、田沼意次の下で勘定組頭を務めた。田沼派としてなかなか優秀な人物だった。しかし、田沼の失脚に伴い、横領が発覚し、逃亡します。その後の誰袖は所在不明になっている。華やかな吉原時代に浮名をながし、大金で見請けされたにも関わらず薄幸な生涯でした。