江戸花京橋名取 山東京伝像 (さんとうきょうでん)

細田栄里( 鳥橋斎栄里)画
刊行年 1795年(寛政7年)頃
本肖像画は35歳前後の山東京伝 (1761-1816)と云われている。背景に黒雲母摺が奢られる豪華な作品でスター作家として相応しい。この肖像は現在でいえばブロマイド。
京伝の出生は深川木場。実家は質屋を営み京橋で育った。本名は岩瀬醒(いわせさむる)。通称を伝蔵とよばれる。山東京伝という名前は、“江戸城の紅葉山の東、京屋(京橋)の伝蔵”に由来する。京伝は吉原きっての通人として右に出るものはなく、若い頃から三味、音曲を多数習い、さらに北尾重政から絵を学んだ。北尾政美(鍬形蕙斎)や窪俊満は同門である。
生涯にわたって2度の結婚をしたが、妻になったのはふたりとも吉原の遊女だった。大変な愛妻家としても知られている。
京伝にとって煙管(きせる)はアイコンでもある。彼が自らデザインした煙草入れ販売していたこと象徴する絵でもある。着物の紋は巴山人紋で京伝は、幼い頃に父親から巴山人の印鑑を貰い生涯大切にした。京伝の多くの作品にこの巴山人の落款がある。同じく父に数え年九歳で寺子屋に入る際に貰った文机(京伝机)も大切にしていました。文机をすり減るほどに使い切ったことは知られた逸話です。この机について京伝が「耳もそこね あし(足)もくしけて もろともに 世にふる机 なれも老いたり」と歌に詠んでます。京伝は人の思いを永く大切にできる人情深い人柄だったようです。
