【大河ドラマべらぼう】18話

唐丸が再び登場!

あの、喜多川歌麿がついに耕書堂に―。

「べらぼう」の18話では、蔦重が見出した天才絵師・喜多川歌麿が登場し、蔦重の義弟として迎え入れられました。喜多川歌麿は美人画の大家として知られ、現在も世界的に高い評価を受ける浮世絵師です。

生年、出生地、出身地などは不明ですが、ドラマでは一時期、蔦重の仕事を手伝っていたものの行方不明になっていた少年・唐丸として設定。

 18話で再会したのですが、壮絶な半生が告白され、売春していた母親に愛情を受けることなく育ったこと、7歳の頃から身体を無理やり売らされていたこと。

そして、江戸の大火で建物の下敷きになった母親を置いて逃げたことなどが打ち明けられました。

その後、唐丸は捨吉と名乗り、絵の代筆や男娼として生計を立て、自分の身体を痛めつけるような生活をしていましたが、蔦重がたすけることに。

 今後、蔦重と共に第二の人生を生きていきます。ドラマでは、歌麿が絵を学んだとされる鳥山石燕も登場。

唐丸の壮絶な幼少期における唯一の安らぎの時間として、鳥山石燕との触れ合いが描かれていました。

鳥山石燕は江戸中期の浮世絵師で、妖怪画で知られる人物です。「ゲゲゲの鬼太郎」の作者・水木しげるも多大な影響を受けたと言われています。歌麿の意外なルーツとして、鳥山石燕の妖怪画も楽しみたいですね。

★★★蔦屋重三郎ゆかりの地にあるカフェ美術館★★★ 

吉原大門口「浮世絵カフェ蔦重」
本物の蔦重作品を展示中!
https://www.ukiyoecafe.jp/
台東区千束4-11-16

出典画像
鳥山石燕画「画図百鬼夜行」より①河童・かわうそ②天狗とやまびこ。
『画図百鬼夜行』(江戸東京博物館所蔵) 出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100450747

べらぼう豆知識

第17話の「往来物」とは?
蔦重が往来物を売りたがったそのワケ?

大河ドラマ「べらぼう」第17話で中盤へ話が展開しています。

蔦重は市中の版元の抵抗もあって細見を吉原の外では販売が難しくなっていました。そこで目を付けたのが「往来物」と呼ばれる学習教材を地方に販売する事でした。

往来物は近代小学校が設立される以前の900年間で日本の学びを支えた寺子屋で使用した教材です。天下泰平となった江戸時代は教育が大きく出世に影響しました。

販路開拓と購入者を同時に獲得する手段として実力者に編集協力を依頼しつつ、本ができあがると、その編集に関わった実力者自身が自慢したいがために自ら購入することを見通していました。蔦重の策士としての一面が発揮されたシーンです。おそらく実際の蔦重は、派手な一面より堅実かつ緻密な計画を立てた経営者だったことが彼の作品から想像ができます。

また、蔦重が往来物を扱った理由としては、毎年安定した売り上げが見込めたからと推測します。寛政年間には全国で1万ほどの寺子屋があったといわれています。寺子屋には毎年新入生が入ります。江戸時代は6歳から17歳くらいまで手習いとして寺子屋などで武士だけでなく商人、農家も机を並べて学んでいました。毎年、新入生が往来物を購入したり借りたりするのです。部数は少なくても安定的な売上になったのでしょう。1つの板で長い間売上が作れるので翌年の売上が予想できたのです。しかも都市部に限らず地方も含めて販売できました。  往来物には手紙の往来の文例集が始まりといわれています。漢字の読み方や書き方、算術、地理、歴史など、幅広い内容が網羅されました。有名な作者には高井蘭山や十辺舎一九などもいました。代表的な「庭訓往来」では、武家社会の礼法や書簡の作法などをまとめたもので、江戸時代には広く普及しました。また吉田光由「塵劫記」に代表される和算は世界的に見ても高度な算術が記載されており、算盤をつかった効率的な数学体系が地方まで浸透していました。大河ドラマべらぼうのなかでは耕作往来(農業向け)や大栄商売往来(商人向け)が紹介されていました。浮世絵カフェでは蔦屋重三郎が作成した代表的な往来物として『利得算法記』『女今川艶紅梅』を江戸期オリジナル作品を展示中です。

利得計算法記  耕書堂版 1788年 天明8年 斎藤貴林[撰]
女今川艶紅梅(おんないまがわつやこうばい)天明1年 耕書堂板

参考図書 国書データベース

新吉原大文字樓繁栄図 カボチャの市兵衛

新吉原大文字樓繁栄図 歌川国周

概要
● 著者国周・筆
● 出版社辻亀板
● 刊行年明治
● 冊数3枚続
● 解説錦絵3枚続

新吉原の三大妓楼とよばれた大文字屋 初代文楼(だいもんじや ぶんろう生年不詳)は、新吉原の妓楼「大文字屋」の主人。通称は市兵衛。文楼は号。狂歌師として知られる同名の人物(狂名・加保茶元成)はべらぼうに出演しているのは養子(市兵衛)。

概要

文楼は伊勢国の出身で寛延3年(1750年)新吉原で遊女屋を始めたとわれる。当初は下級の河岸店を営んでいたが、宝暦2年(1752年)京町一丁目(台東区千束4-40-6 台東区立吉原公園)に移って「大文字屋」と号し有数の大店経営者となりました。当初は家名より村田屋と称していたようですが、家と諍いがあって暖簾を没収されたため、移転を機に新調した暖簾に「大」の字を入れて新たな屋号としたらしい。妻は吉原連の女流狂歌師として知られた相応内所(本名・仲)。後に養子にとった二代目文楼(市兵衛)婿いりして2代目を継いだようです。としている。安永9年(1780年)60余歳で没。法名は釈仏妙加保信士だそうです。戯号に合わせて法名までカボチャ!

奇行家として知られ、まだ河岸店のころに抱え遊女の惣菜として大量のかぼちゃを買い入れたことから「かぼちゃ(加保茶)市兵衛」とあだ名された。また頭が大きく背が低かったことが由来とも言われ、「ここに京町大文字屋のかぼちゃとて。その名は市兵衛と申します。せいが低くて、ほんに猿まなこ。かわいいな、かわいいな」と揶揄されたが、これを自ら進んで歌い踊り、却って自店を喧伝したという。これは吉原中から江戸中へ広まって流行歌となり、多くの替え歌が作られた。また園芸を好み、マツバランに斑を入れる工夫をして「文楼斑」のと名付けられている。

【大文字楼の大名跡、誰袖(たがそで)】
青楼七小町で歌麿も描いた「大文字屋内多賀袖」

大名跡 大文字屋 多賀袖 歌麿

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で福原遥が演じているのが大文字屋の花魁(おいらん)である誰袖(たがそで)です。

蔦屋重三郎が作った吉原細見にも大文字屋にそれぞれの遊女の名前に「たがそで」の横には「よび出し」と書かれています。

当時、吉原の高級遊女である花魁の中でも、呼び出しは最も格が高い花魁でした。まさに大文字屋の大名跡と言える花魁だったのでしょう。

天明四年(1784年)の正月に発行された吉原細見からは誰袖がなくなっています。土山宗次郎によって身請けされた年なのです。

天明 3年(1783年)正月刊行の万載狂歌集(まんざいきょうかしゅう)の編集者は 四方赤良 と 朱楽菅江。 刊行者は須原屋伊八で232人の748首を集める。その一人がこの誰袖だ。‘わすれんとかねて祈りし紙入れの などさらさらに人の恋しき‘

と詠った。当時の花魁はあらゆる芸事に通じていて狂歌も心得ていた。

大文字屋の誰袖は天明四年に旗本の土山宗次郎によって1200両という大金で身請けされた。

土山宗次郎は元々は御家人でしたが、旗本になり、田沼意次の下で勘定組頭を務めた。田沼派としてなかなか優秀な人物だった。しかし、田沼の失脚に伴い、横領が発覚し、逃亡します。その後の誰袖は所在不明になっている。華やかな吉原時代に浮名をながし、大金で見請けされたにも関わらず薄幸な生涯でした。

天保六年新吉原仮宅場所一覧 (てんぽうろくねんしんよしわらかりたくばしょいちらん)

制作年:天保6年(1835)
作者:歌川国直/画 
版元:蔦屋重三郎Ⅲ版 浅艸雷神門内店

新吉原仮宅場所一覧

江戸時代(通算260年)における大火の発生は、約90件と記録されている。3年に1度は江戸の町の大半が大火に見舞われたのである。そのたびに新吉原は臨時営業で仮宅として近隣に間借りして営業を続けた。岡場所と区別するために幕府公認の証文と看板を掲げて営業を続けたという。意外なことだが仮宅はむしろ利便性が高まって客が増えたという。郭内の出火原因のほとんどは女郎の放火であった。死罪は免れない大罪だが、そこまでしてでも廓をでたい女郎は後を絶たなかった。

江戸三大大火として知られる火災がある。

明暦の大火

 明暦3年(1657)正月18日本郷丸山本妙寺から出火した。振袖を本妙寺で焚き上げしたところ、飛火して大火になったことから振袖火事ともいわれる。

出火によって江戸城本丸、ニノ丸、三ノ丸はじめ武家邸500余、寺社300余、倉庫9,000余、橋梁61を焼失、死者10万余人ともいわれ、江戸時代最大の大火となった。復興では防火を優先した都市づくりがなされた。

明暦の大火の絵
「写真図説日本消防史」より

明和の大火

 明和9年(1772)2月29日、目黒行人坂大円寺から出火し、麻布、芝から日本橋、京橋、神田、本郷、下谷、浅草と下町一円を焼失し、死者は数千人にも及んだといわれる。別名行人坂火事。

「写真図説日本消防史」より

文化の大火

 文化3年(1806)3月4日芝車町から出火し、日本橋、京橋、神田、浅草に延焼した。武家邸80余、寺社80余、500余町が焦土となり、死者は1,200余人といわれる。別名車町火事、あるいは丙寅火事ともいわれる。
 

明暦・明和・文化の大火の3つが江戸三大大火といわれている。

絵の左下に板元として「浅艸雷神門内 蔦屋重三郎」の名が記されるが、これは3代目蔦屋重三郎のこと。天保6年正月25日、角丁より出火した火災により新吉原遊廓は全焼し、本図はその仮宅の案内図である。浅草寺を中心に、吉原、隅田川を俯瞰(ふかん)した図で、まるでヨーロッパの港のように道が婉曲(えんきょく)している。細部に目を凝らすと、町家の屋根の上に、妓楼の規模を示す記号と、楼主の名が記されている。
「吉原細見の世界Ⅲ前編」:3代目蔦重による仮宅案内図。天保 6 年正月25 日、角町より出火した火災により新吉原遊廓は全焼した。町家の屋根の上に、妓楼の規模を示す記号と、楼主の名が記されている。左側の吉原遊郭の地にも妓楼の記号・名が記され、吉原外に行かないで新吉原内において仮宅営業をした店もあった点がわかる。
 仮宅は、本所・深川地区にも設けられたが、本図では山の宿、花川戸など台東区内に限定して描かれている。

参考資料 
・台東区立図書館・消防防災博物館

隅田川水神の森真崎(すみだがわすいじんのもりまさき)

本作品は向島から水神の森と隅田川の対岸の真崎(真崎稲荷明神社)の風景です。真崎主変は数多くの狂歌でも詠われた風光明媚な景勝地でした。
この水神は、水難、火事除けのご利益があるとされ帆掛け船を操る船頭たちばかりでなく庶民の間でも厚い信仰を得ていました。真崎稲荷明神社は現在の石浜神社に合祀されています。隅田川の東岸の堤は、御殿山、飛鳥山と並ぶ桜の名所となっていました。全体に柔らかな色合いで、奥には男体山と女体山の輪郭もはっきりと筑波山が見えます。手前には春爛漫で桜が満開を迎えています。桜、大川、筑波山と、広重得意の遠近法を駆使した風光明媚な景色となっています。

名所江戸百景 箕輪金杉三河しま(みのわかなすぎみかわしま) 歌川広重 安政4年(1857)刊

江戸時代から大正期までは新吉原の北にある三河島(現・荒川区東日暮里)は鶴の飛来地でした。丹頂鶴や真名鶴が飛来する11月になると毎年、竹の囲いをめぐらして鶴の餌付けが行われていたようです。現在ではまったく想像がつかない風景ですが、もともと吉原より北は「葦」がしげる湿地帯だったので鶴にとっては良い餌場所だったのでしょう。将軍が鷹狩りで鶴を捕獲し、朝廷に献上する儀式「鶴御成(つるのおなり)」の猟場でもありました。
  丹頂鶴の翼幅は一間を超える大型な鳥ですが、広重は「空摺」をつかって鶴の大きな羽の立体感を演出しています。ふわふわの羽で羽ばたく絵は活き活きしています。

『浅草田圃酉の町詣(あさくさ たんぼ とりのまち もうで)』。歌川広重 

価格22,000円(税込み)

新吉原の西側に鷲明神(現・浅草鷲神社)があった。浅草寺の裏側(北)は田んぼや畑や葦原だった。近年の猫人気にあやかって本作品も人気作品となっているが、アイコンである猫には摺師が「きめ出し」という技をつかって凹をつくって立体感をだしている点にも注目です。
この絵は妓楼の控部屋から鷲明神方面を眺めている設定で窓の外には「酉の祭(とりのまち」へ詣でる大勢の人たちが描かれています。部屋の中に目を転じると、畳の上には小さな熊手。じっくりみると熊手の形をした簪(かんざし)が並んでいます。
「酉」は「取る」に通じることから、商売繁盛を願って多くの人が酉の市に参詣しました。

名所江戸百景 浅草金龍山 (あさくさきんりゅうざん)歌川広重

価格22,000円(税込み)

広重の代表作で雷門越しの遠近法と紅白のコントラストが印象的です。この図は雪が降る浅草寺雷門から、仁王門と五重塔を望んだものです。五重塔は消失して今はありません。

 広重は赤い雷門と白くこんもりと積もった雪のコントラストを完全な構図で描いています。この浮世絵のみどころは摺り師の技で「空摺 からずり」をダイナミックにつかっている点です。空摺は絵の具を付けずに凹を摺る技法です。現代でいえば3D技術のような技巧です。

この絵の魅力は降りしきる雪と枝に積もった雪をリアルに巧みな立体感を描いていることでしょう。印刷では真似できない、和紙を使った木版画の魅力がつまった人気作品です。

おすすめ作品 『傾城買四十八手』けいせいかいしじゅうはって

吉原きっての通人が描く洒落本の名作
傾城恋愛手管の指南役は山東京伝

花魁2名を身請けした究極の通人「山東京伝」が描いた新吉原の手管物語です。江戸後期の洒落本1冊。寛政二年(1790年)刊。

中国の仙人で鯉(旦那衆) を巧みに乗りこなしたといわれる琴高仙人(きんこうせんにん)を遊女に見立てた挿絵。

さまざまな遊客遊女との会話を4シーンに描き分け、遊興・恋愛における男女の手くだ・技巧・感情を細かく鋭い観察と巧妙、辛辣、ユーモラスに描いた逸品。

しつぽりとした手・やすひ手・見ぬかれた手・真の手から成る。吉原の大見世・小見世のそれぞれ異なる地位の遊女と遊客の閨房における会話を生々しくユーモラスに足描いている。吉原にいったことがない者でさえも吉原遊びの手練手管(てれんてくだ)を知った気にさせる内容でした。山東京伝の経験が最大限に活かされたの遊里をテーマにした洒落本の代表作である。

keiseikai shijūhatte
作・画:山東京伝(さんとう きょうでん)
版元:蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)・耕書堂(こうしょどう)
発売年:, 寛政2年(1790年)
浮世絵カフェの蔵書は耕書堂のオリジナル。2冊。多くの大学の蔵書は1冊だが当店在庫には2冊と1冊の2種類がある。

おすすめ作品 『江戸生艶気樺焼』えどうまれ うわきのかばやき

抱腹絶倒!黄表紙のベストセラー
醜かわいい艶次郎が色男を目指す

『江戸生艶気樺焼』は山東京伝の代表作であり20代で最大のヒット作でした。浮世絵カフェでは江戸期オリジナル作品を常時展示しています。

黄表紙でもっとも有名が挿絵~仇気屋(あだきや)の一人息子である艶二郎

豚鼻を京伝鼻と呼んでいる。京伝は色男だったが、自らを描くときはわざと醜男に描いていた。

主人公は百万両分限(百万長者)の仇気屋(あだきや)の一人息子である艶二郎(つやじろう)19歳。江戸の若旦那としては典型的な浮気者で生来好色の承認欲求が強く思慮浅く、江戸時代の若者の典型でした。遊里の女性にもてはやされる新内節(しんないぶし)にでてくる色男や歌舞伎役者のように浮名をながしたいと思っていました。

主人公の艶次郎は醜男でありながらうぬぼれが強く,悪友の道楽息子北里喜之介,太鼓医者輪留井志庵 (わるいしあん) を誘って,色男の評判を立てようと画策します。架空の情人の名前を腕に刺青したり、芸者に金をやって家に駆込みをさせたり,女郎を身請けして駆落ちの狂言を仕組んだりします。女郎を金でやとって演技させていることを知らない艶二郎の家の下女たちは「不細工な若旦那に惚れるとは物好きな変わり者だ」と陰口をささやきました。物語の結末では、遊びの限界や愚かさを示すようなオチが用意されており、「行き過ぎた遊びの結末」を教訓的に描いています。

艶次郎は色男になりたかったが、極端な行動で騒動をおこす

その滑稽で突飛な行動とぶさいくな牡丹鼻は「京伝鼻」「艶次郎鼻」と呼ばれました。本作品の流行で艶二郎という名は勘違い男の代名詞となりました。

本作は、黄表紙(江戸時代の風刺的な絵入り読み物)の三大作品と云われています。『江戸生艶気樺焼』(山東京伝)『金々先生栄花夢』(恋川春町)『御存商売物』(山東京伝)これら3作は大変人気を博しました。

これらの作品は、町人文化や社会風俗を反映しながら、ユーモアと風刺を交えて遊里文化を面白おかしく描いた作品です。合わせて一読すると江戸文化をさらに深く理解する一助となります。

『江戸生艶気樺焼』
作者:山東京伝(さんとう きょうでん)
画:北尾政演(きたお まさのぶ)
版元:蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)・耕書堂(こうしょどう)
発売年:天明5年(1785年)浮世絵カフェの蔵書は耕書堂のオリジナル。題箋が「江戸生浮気蒲焼」となっていること奥付が初摺とは違うので2摺と思われる。
販売価格:当時の黄表紙の相場を参考にすると、銀3分~4分(約200~400文)程度と推測されます。
4回以上の重版となった。3摺りからは題箋(タイトル)が「浮気蒲焼」にかわった。