図の①が耕書堂だ。五十間道の左側にあったがちょうど浮世絵カフェのある千束4-11周辺に所在したと推測される。実際には複数回の火事を繰り返して正確には不明だが、大門の位置と五十間道はほぼ当時の配置なので大きくは違いないだろう。

浮世絵カフェの所在地である新吉原大門前の五十間道(千束4丁目11番地周辺)は初代蔦屋重三郎が起業した場所と云われている。

蔦屋重三郎が起した「耕書堂」で発行していた「吉原細見」には冒頭の挿絵に「耕書堂」の所在が記載されている。吉原大門口の五十間通り左側に「細見版元本屋 蔦屋重三郎」と記載されている。「耕書堂」は安永元年(1772年)に創業し、当初は義理の兄(蔦屋次郎兵衛)の引手茶屋の軒先を借りて地本販売と貸本を扱いはじめたことが知られている。興味深いことに吉原細見では「耕書堂」の位置が五十間でも数回変わっていることも確認できる。

重三郎は寛延3年(1750年1月7日)に吉原で生まれた。父は尾張出身の丸山重助、母は広瀬津与で出生時名は丸山柯理。事情は不明だが両親の離別した7歳で、同じく吉原で引手茶屋を営む喜多川氏(屋号蔦屋)に養子に出されて喜多川柯理(きたがわからまる)が本名になった。 喜多川家の養子となった重三郎は家業の引手茶屋「つたや」で働いていた。その傍らで、吉原の情報通である重三郎は地本問屋最大手の鱗形屋で改め役(編集者)を務めたと思われる。同時に鱗型屋孫兵衛の出版する本の取次販売や貸本を生業にしていた。当初は貸本屋と地本屋の取次として営んでいたが、のちに鱗型屋が版権トラブルで凋落し富本正本版元組合に加入し、引手茶屋蔦屋の4軒隣に地本を扱う蔦屋重三郎「吉原細見版元」として独立した書肆店舗を営業した。

『吉原細見五葉松』(江戸東京博物館所蔵) 耕書堂版 天明3年1月刊

出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100450863