浮世絵黄金期を作った
敏腕プロデューサーの経歴と人脈

蔦屋重三郎と山東京伝。蔦重が京伝に原稿を依頼している図。堪忍袋緒〆善玉より

出生について~

蔦屋重三郎は寛延3年(1750年1月7日)に吉原で生まれた。父は尾張出身の丸山重助、母は広瀬津与で出生時名は丸山柯理。事情は不明だが両親の離別した7歳で、同じく吉原で引手茶屋を営む喜多川氏(屋号蔦屋)に養子に出されて喜多川柯理(きたがわからまる)が本名になった。

地本販売・貸本~

喜多川家の養子となった重三郎は家業の引手茶屋「つたや」で働いていた。その傍らで、吉原の情報通である重三郎は地本問屋最大手の鱗形屋で改め役(編集者)を務めたと思われる。同時に鱗型屋孫兵衛の出版する本の取次販売や貸本を生業にしていた。当初は貸本屋と地本屋の取次として営んでいたが、のちに鱗型屋が版権トラブルで凋落し富本正本版元組合に加入し、引手茶屋蔦屋の4軒隣に蔦屋重三郎「吉原細見版元」として独立した書肆店舗を営業した。

 

吉原細見 五葉松 天明4 蔦屋重三郎 書肆耕書堂 新吉原大門口

版元へ~

蔦重が最初に版元となったのは吉原の大店の数店舗に客入りをよくする口上で口説き落として入銀(実質的に広告費用)を得た。この入銀で大店の遊女を紹介した「一目千本」1774年(安永3年)を発売した。絵師に北尾重政の協力を得て出版した。その後、海賊版「早引節用集」の版権トラブルで鱗型屋が凋落したのを機会にして吉原細見の独占株を取得し、はれて版元となり事業を拡大した。吉原細見は「籬の花」と呼ばれる吉原細見を1775年(安永4年)に重三郎自ら出版したのが1号となる。当初は耕書堂と鱗形屋の版の2つの吉原細見が販売されたが、徐々に重三郎がシェアと奪っていった。重三郎は耳目を集めるコンテンツプロデュース力と本を構成するディレクション能力にたけていた。さらには成功するにつれて求心力が高まり、売れっ子だった勝川春章・北尾重政・恋川春町・山東京伝らの多彩な絵師と戯作者に恵まれた。出版物へ広告を掲載する連金術にたけており、瞬く間に時代の寵児になった。

大手版元として飛躍と寛政の弾圧へ

蔦重が34歳のときに転機が訪れた。大手、一流の版元が軒を連ねる日本橋通油町の書肆・丸屋小兵衛(通称丸小)の「豊仙堂」と株(営業権)を手に入れた。店名を「耕書堂」と改めて新たな本拠としたのが、天明3年(1783年)9月でした。この際に両親を呼び寄せて同居する親孝行な一面をもっていた。特に母親を敬ったことは知られている。

吉原大門口の店舗は手代の徳三郎を店長としてまかすことになりました。大手版元と並んで店をかまえる事は耕書堂のブランディング向上を意識していたことが推測されます。これまで耕書堂は草双紙、浮世絵など娯楽本を中心にあつかう地本問屋だったが、寛政3年(1791年)に書物問屋の株を取得した。史書、医学書、和歌、儒学書など学術書を扱うことを「書物問屋」といった。これによって安定的な売上を期待できると同時に上方へ販売ルートを広げる狙いもあった。この頃には滝沢馬琴、十返舎一九や喜多川歌麿は耕書堂で働いたり住み込みの食客となっていた。蔦重は面倒見がよかったようで、才能がある人間には惜しみなく援助したという。蔦重は葛飾北斎や写楽などの才能を見抜き挿絵などを任せるなどして徐々に関係が深まっていった。その直後に事件がおきる。黄表紙でヒット作を連発し飛ぶ鳥落とす勢いだった蔦重は「寛政の改革」の出版統制(寛政3年1791年)による弾圧を受けたのだ。山東京伝を作者として出版した洒落本3作が咎められ、身上半減の闕所処分(けっしょしょぶん)されてしまいます。同時に山東京伝は手鎖50日の刑に処せられました。書物問屋の株をもっていたことで地本の売上減少を補うことができたようだ。逆風のなかでも蔦重は幕府の弾圧にも負けず新作を制作していきます。復活をかけて世に出したのは「美人大首画」だ。喜多川歌麿は黄表紙や狂歌本の挿絵を描いていたが重三郎のプロデュースで錦絵の「婦人相学十躰」シリーズを発売する。それまでは錦絵の祖である鈴木春信は有名だったがすらりとした8頭身美人として全身を描いたものが中心だった。対して歌麿が描いたのは花魁や役者だけではなく市井の看板娘など活き活きとした表情を描き切り、ウエストアップの大首絵でシリーズ化した。重三郎の眼力が冴えたプロデュースで目新しい演出だった。なかでも、宮本豊ひな、難波屋おきた、高島屋おひさ。この三人の大首絵は「当時(寛政)三美人」と呼ばれ大ヒットした。

寛政の三美人 

蔦屋重三郎は弾圧に負けず、版元としての評価を極めたのだった。晩年に大作の役者絵を一気に28枚を発売した。謎の絵師「東洲斎写楽」の登場だ。4部作合計140作をたった10か月で発売して話題になりますが、売れ行きはいま一つのうえにモデルになった役者からもデフォルメが過ぎて評価が良くなかったという。出版界の巨星となった蔦重は日本人なら誰でも知っている名作・傑作・問題作を遺した。初代重三郎は48歳にて脚気(ビタミンB1栄養不足)で1797年(寛政9年)に逝去します。「柝はまだ鳴らないな」

2代目の耕書堂~

その後は番頭だった勇助が蔦屋重三郎の名跡を次いで2代目へ。葛飾北斎や曲亭馬琴、十返舎一九と活動をつづけた。勇助の作品でもっとも有名なのは葛飾北斎と制作した「東都名所一覧」「画本東都遊」だろう。しかしながら再度の苦難が訪れる。享和2年に北斎の挿絵で出版した「潮来絶句集」が華美であるという理由で幕府から番頭の忠兵衛が罰せられた。耕書堂は次第に業績が悪化して通油町から横山町へ移転している。さらにその後に小伝馬町3丁目へと移転しているが年々と業績が悪化していたことが推測されている。勇助は36年間も勤め上げ天保の飢饉が始まった天保4年に没した。勇助の耕書堂は初代より営業期間は長かった。勇助の養子が3代目となった。しかしわずか4年で没した。この際に日本橋から浅草へ移転している。天保8(1837)年冬には吉原細見の株を伊勢屋三次郎に譲っている。4代目蔦屋重三郎は浅草雷門近くで「三艇春馬」として戯作なども執筆していたらしいが目立った版元としての活躍はわかっていない。4代目(文久元年)頃で閉店したという説とのれん分けした五代目が明治初期まで耕書堂を名乗って営業していたようだが詳細は分かっていない。吉原細見の最後は玉屋山三郎が発行を行った版が最後となって細見の役目は終わったようだ。

【蔦屋耕書堂は移転履歴~吉原に始まり浅草に終わる。】

発祥地:吉原大門口(五十間通)②日本橋通油町③横山町④小伝馬町3丁目⑤浅草雷門~⑥浅草寺周辺で閉店 初代から数えて5代目で幕を閉じた。蔦屋発行の書物の奥付から推察。

参考図書および出典
『吉原細見五葉松』(江戸東京博物館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100450863
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