大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の主人公である蔦屋重三郎は新吉原大門前の五十間通り左側に店を構えていました。
浮世絵カフェは台東区千束4丁目11番地と蔦屋重三郎が耕書堂のほぼ発祥地に所在します。正確な場所は不明ながら「吉原細見」の地図を見る限り、浮世絵カフェのある場所が耕書堂のあった場所の近くだと推測されます。
浮世絵カフェでは耕書堂が扱っていた書籍や浮世絵を展示販売します。蔦重と絵師・戯作者の北尾重政・恋川春町・朋誠堂喜三二・山東京伝・歌麿・写楽・北斎たちがつくった江戸時代の「オリジナル」和書や、浮世絵を常時30~作品ほど展示します。あわせて現代摺師彫師の作品を展示販売します。江戸時代から変わらない伝統技術を継承している本物の手摺木版画を見て、触って購入できます。
入館無料です。浮世絵カフェは名前そのままで、浮世絵を愉しみながらおいしいカフェタイムを過ごしていただく店舗です。ハンドドリップ珈琲や自然栽培のお茶とあわせて本物の「手摺木版画」の世界を体験してください。
ニュース
浮世絵今昔~コラム
- 新吉原大文字樓繁栄図 カボチャの市兵衛 2025年4月19日新吉原大文字樓繁栄図 歌川国周概要● 著者国周・筆● 出版社辻亀板● 刊行年明治● 冊数3枚続● 解説錦絵3枚続 新吉原の三大妓楼とよばれた大文字屋 初代文楼(だいもんじや ぶんろう生年不詳)は、新吉原の妓楼「大文字屋」の主人。通称は市兵衛。文楼は号。狂歌師として知られる同名の人物(狂名・加保茶元成)はべらぼうに出演しているのは養子(市兵衛)。 概要 文楼は伊勢国の出身で寛延3年(1750年)新吉原で遊女屋を始めたとわれる。当初は下級の河岸店を営んでいたが、宝暦2年(1752年)京町一丁目(台東区千束4-40-6 台東区立吉原公園)に移って「大文字屋」と号し有数の大店経営者となりました。当初は家名より村田屋と称していたようですが、家と諍いがあって暖簾を没収されたため、移転を機に新調した暖簾に「大」の字を入れて新たな屋号としたらしい。妻は吉原連の女流狂歌師として知られた相応内所(本名・仲)。後に養子にとった二代目文楼(市兵衛)婿いりして2代目を継いだようです。としている。安永9年(1780年)60余歳で没。法名は釈仏妙加保信士だそうです。戯号に合わせて法名までカボチャ! 奇行家として知られ、まだ河岸店のころに抱え遊女の惣菜として大量のかぼちゃを買い入れたことから「かぼちゃ(加保茶)市兵衛」とあだ名された。また頭が大きく背が低かったことが由来とも言われ、「ここに京町大文字屋のかぼちゃとて。その名は市兵衛と申します。せいが低くて、ほんに猿まなこ。かわいいな、かわいいな」と揶揄されたが、これを自ら進んで歌い踊り、却って自店を喧伝したという。これは吉原中から江戸中へ広まって流行歌となり、多くの替え歌が作られた。また園芸を好み、マツバランに斑を入れる工夫をして「文楼斑」のと名付けられている。 【大文字楼の大名跡、誰袖(たがそで)】青楼七小町で歌麿も描いた「大文字屋内多賀袖」 大名跡 大文字屋 多賀袖 歌麿 2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で福原遥が演じているのが大文字屋の花魁(おいらん)である誰袖(たがそで)です。 蔦屋重三郎が作った吉原細見にも大文字屋にそれぞれの遊女の名前に「たがそで」の横には「よび出し」と書かれています。 当時、吉原の高級遊女である花魁の中でも、呼び出しは最も格が高い花魁でした。まさに大文字屋の大名跡と言える花魁だったのでしょう。 天明四年(1784年)の正月に発行された吉原細見からは誰袖がなくなっています。土山宗次郎によって身請けされた年なのです。 天明 3年(1783年)正月刊行の万載狂歌集(まんざいきょうかしゅう)の編集者は 四方赤良 と 朱楽菅江。 刊行者は須原屋伊八で232人の748首を集める。その一人がこの誰袖だ。‘わすれんとかねて祈りし紙入れの などさらさらに人の恋しき‘ と詠った。当時の花魁はあらゆる芸事に通じていて狂歌も心得ていた。 大文字屋の誰袖は天明四年に旗本の土山宗次郎によって1200両という大金で身請けされた。 土山宗次郎は元々は御家人でしたが、旗本になり、田沼意次の下で勘定組頭を務めた。田沼派としてなかなか優秀な人物だった。しかし、田沼の失脚に伴い、横領が発覚し、逃亡します。その後の誰袖は所在不明になっている。華やかな吉原時代に浮名をながし、大金で見請けされたにも関わらず薄幸な生涯でした。More
- 天保六年新吉原仮宅場所一覧 (てんぽうろくねんしんよしわらかりたくばしょいちらん) 2025年4月11日制作年:天保6年(1835)作者:歌川国直/画 版元:蔦屋重三郎Ⅲ版 浅艸雷神門内店 新吉原仮宅場所一覧 江戸時代(通算260年)における大火の発生は、約90件と記録されている。3年に1度は江戸の町の大半が大火に見舞われたのである。そのたびに新吉原は臨時営業で仮宅として近隣に間借りして営業を続けた。岡場所と区別するために幕府公認の証文と看板を掲げて営業を続けたという。意外なことだが仮宅はむしろ利便性が高まって客が増えたという。郭内の出火原因のほとんどは女郎の放火であった。死罪は免れない大罪だが、そこまでしてでも廓をでたい女郎は後を絶たなかった。 江戸三大大火として知られる火災がある。 明暦の大火 明暦3年(1657)正月18日本郷丸山本妙寺から出火した。振袖を本妙寺で焚き上げしたところ、飛火して大火になったことから振袖火事ともいわれる。 出火によって江戸城本丸、ニノ丸、三ノ丸はじめ武家邸500余、寺社300余、倉庫9,000余、橋梁61を焼失、死者10万余人ともいわれ、江戸時代最大の大火となった。復興では防火を優先した都市づくりがなされた。 明暦の大火の絵「写真図説日本消防史」より 明和の大火 明和9年(1772)2月29日、目黒行人坂大円寺から出火し、麻布、芝から日本橋、京橋、神田、本郷、下谷、浅草と下町一円を焼失し、死者は数千人にも及んだといわれる。別名行人坂火事。 「写真図説日本消防史」より 文化の大火 文化3年(1806)3月4日芝車町から出火し、日本橋、京橋、神田、浅草に延焼した。武家邸80余、寺社80余、500余町が焦土となり、死者は1,200余人といわれる。別名車町火事、あるいは丙寅火事ともいわれる。 明暦・明和・文化の大火の3つが江戸三大大火といわれている。 絵の左下に板元として「浅艸雷神門内 蔦屋重三郎」の名が記されるが、これは3代目蔦屋重三郎のこと。天保6年正月25日、角丁より出火した火災により新吉原遊廓は全焼し、本図はその仮宅の案内図である。浅草寺を中心に、吉原、隅田川を俯瞰(ふかん)した図で、まるでヨーロッパの港のように道が婉曲(えんきょく)している。細部に目を凝らすと、町家の屋根の上に、妓楼の規模を示す記号と、楼主の名が記されている。「吉原細見の世界Ⅲ前編」:3代目蔦重による仮宅案内図。天保 6 年正月25 日、角町より出火した火災により新吉原遊廓は全焼した。町家の屋根の上に、妓楼の規模を示す記号と、楼主の名が記されている。左側の吉原遊郭の地にも妓楼の記号・名が記され、吉原外に行かないで新吉原内において仮宅営業をした店もあった点がわかる。 仮宅は、本所・深川地区にも設けられたが、本図では山の宿、花川戸など台東区内に限定して描かれている。 参考資料 ・台東区立図書館・消防防災博物館More
- 隅田川水神の森真崎(すみだがわすいじんのもりまさき) 2025年4月11日本作品は向島から水神の森と隅田川の対岸の真崎(真崎稲荷明神社)の風景です。真崎主変は数多くの狂歌でも詠われた風光明媚な景勝地でした。この水神は、水難、火事除けのご利益があるとされ帆掛け船を操る船頭たちばかりでなく庶民の間でも厚い信仰を得ていました。真崎稲荷明神社は現在の石浜神社に合祀されています。隅田川の東岸の堤は、御殿山、飛鳥山と並ぶ桜の名所となっていました。全体に柔らかな色合いで、奥には男体山と女体山の輪郭もはっきりと筑波山が見えます。手前には春爛漫で桜が満開を迎えています。桜、大川、筑波山と、広重得意の遠近法を駆使した風光明媚な景色となっています。More
- 名所江戸百景 箕輪金杉三河しま(みのわかなすぎみかわしま) 歌川広重 安政4年(1857)刊 2025年4月11日江戸時代から大正期までは新吉原の北にある三河島(現・荒川区東日暮里)は鶴の飛来地でした。丹頂鶴や真名鶴が飛来する11月になると毎年、竹の囲いをめぐらして鶴の餌付けが行われていたようです。現在ではまったく想像がつかない風景ですが、もともと吉原より北は「葦」がしげる湿地帯だったので鶴にとっては良い餌場所だったのでしょう。将軍が鷹狩りで鶴を捕獲し、朝廷に献上する儀式「鶴御成(つるのおなり)」の猟場でもありました。 丹頂鶴の翼幅は一間を超える大型な鳥ですが、広重は「空摺」をつかって鶴の大きな羽の立体感を演出しています。ふわふわの羽で羽ばたく絵は活き活きしています。More
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